父が、私の「ファン1号」でした。

赤いウェアでスケート場に立つ、幼いころの井上怜奈さん

——スケートはいつはじめたのですか。

4才のときです。そのころ小児ぜんそくがあり、お医者さんのすすめで、水泳とスケートをはじめました。水泳は、ビート板を持っているのに沈んでしまうほどダメだったのですが、スケートは鬼ごっこしたり、遊びながら教えてもらったせいか、楽しくつづけられました。

——世界のトップスケーターが集まる国際大会で、小さい頃から日本代表として活躍しましたね。

スケートがほんとうに好きで、やっていたら結果がついてきました。今思えばそういった大会の価値はあまりわかっていなかったかもしれません。そして18才のとき、リレハンメルの後は、燃えつき症候群というのでしょうか、自分の中でもう満足してしまい、これからはスケート以外のことで大学生活を楽しみたいなとさえ思っていました。

その頃、健康診断で父の肺に影が見つかりました。肺がんだということがわかり、手術を受けました。父が43才のときです。じつは、前の年の健診でも再検査をすすめられていたのですが、私のスケートの試合が重なっていそがしく、忘れてしまっていたようなのです。手術では肺の半分以上を摘出したのですが、転移はなく、そのうち仕事にも復帰しました。まだすべてが前向きで、明るい時期でした。

私は人にすすめられて、春から秋にかけてのオフシーズンにアメリカでの練習を始めました。それまではスケートと学校が生活のほとんどを占め、掃除洗濯など親がやってくれるのが当たり前と思っていたわけですが、アメリカでは全部自分でしなきゃいけない。初めて親離れができた時期でした。

——お父さんの再発の知らせは、アメリカで聞いたのですか。

はい。手術から1年ほどで父の肺がんは再発しました。まだ若いので進行が早く、リンパ節に転移して。帰って会った父は、前よりも小さくなったように感じました。私は日本にもどって、父の看病に専念したいと思いました。スケートは、やりたいときにいつでもできるから、今は父と過ごす時間を大事にしたいと思ったのです。しかし父は自分の病気のことで、私のやりたいことができないということは絶対に避けたいと考えていました。それで何度かケンカにもなりました。

そんなとき、母に「どうかお父さんの希望を聞いてあげて」って言われて、初めて「あ、そうだな」って。残された時間の少ない父親の願いを聞いてあげるのも親孝行のひとつかもしれないと思い、スケートに専念することにしました。今でも、もうちょっといっしょに過ごしたかったな、と思うことはありますけどね。再発から約1年で、父は亡くなりました。

父親と部屋着で寝転がる、幼いころの井上怜奈さんと、怜奈さんのお父さん

——どんなお父さんでしたか。

二人並んで座る、幼いころの井上怜奈さんと怜奈さんのお母さん

ほんとうに、誰に対してもやさしい人でした。そして小さいときから私のスケートをいちばん楽しそうに見ていてくれました。私は父を「ファン1号」と呼んでいたのです。
父が亡くなった後は、何もする気が起こらなくなって。母と2人になり経済的にも大変で、これからどうしようって、ぬけがらのようでした。

父と母は、私が大学生になっても手をつないで歩くほどのおしどり夫婦だったんです。そんな母にとっては相当なショックだったと思います。私はお金のことも考えて、母に「スケートはやめるよ」と言いました。でも父は生きている間に「怜奈がやりたいことはできるかぎりやらせてあげてくれ」とリクエストしていたのだそうです。母は「怜奈がやりたいのなら、アメリカでやったほうがいいよ。できるかぎりサポートするから、お互いの道でがんばろう」と言ってくれたのです。

私はアメリカに拠点を移し、土産物屋さんやお寿司屋さんで働いて生活費の足しにしました。スケートの衣装も、全部自分でスパンコールをつけてお金をセーブしたり。母は日本で、塾の講師や保母さんなどいろんな仕事をしながら私を支えてくれました。私を幸せにしようと、いつもがんばりすぎるくらいがんばってくれる。そんな母の存在そのものが、私にとっては大切なんです。

ゼロからのスタートというより、マイナスからのスタート。

スケートリンクで練習をする井上怜奈さん

——そんなときに怜奈さんご自身の体調が変化が。

父が亡くなって1年半ほどたった頃でした。咳が止まらなくなったのです。風邪薬を飲んでも止まらず、夜も眠れない。知り合いにすすめられて検査をしたら肺がんだとわかりました。

がんはまだ最初のステージで、小さいものでした。初期の肺がんに自覚症状はないはずなので、もし、咳が長引いていなかったら、病院に行かず、見つかるのが遅れたかもしれません。

早期発見が大事である理由のひとつは、治療のオプションが多くなることだと思います。
私の場合、まだがんが小さかったから、手術で取ってしまう方法と、抗がん剤と放射線で治療する方法の2つから選ぶことができました。スケートをつづけるには体力がいるけど、手術をすると肺活量に影響があるかもしれない。また、がん細胞の種類としては進行の早いタイプではないことも検査でわかった。それでまずは抗がん剤と放射線による治療治療を選択したわけです。

治療は入院でなく通院で行いました。アメリカではたいていの方は通院ですね。副作用は、やはりありました。疲れやすかったり、むくんだり、髪の毛が抜けたり。でも父の治療を見ているより、自分のときのほうがつらくなかった。がんになると、自分もさることながら、周りが大変なんですね。今度は私が病気になったということで、母はすごくダメージを受けたと思います。

私は、もうなっちゃったらしょうがない、と、淡々と治療に通いました。そして6カ月目に入ったあたりで、レントゲンから影は消えていました。治療後は体力が十分回復するのを待って、半年後にリンクでの練習を再開しました。

屋内でストレッチをする井上怜奈さん

——ジョン・ボールドウィンさんと出会ったのはその頃ですか。

そう、2000年の初め頃です。何度も彼のお父さんから電話をもらっていたけど、断わっていました。私はあと1年シングルで選手生活したら引退しようと思っていたのです。でもあまりに何度も連絡があるものだから、一度ペアで滑ってみた。そしたら、意外にしっくりきた。どうせあと1年、うまくいってもいかなくてもいいかな、くらいの気持ちで受けることにしたんです。

ジョンは子供時代にシングルで世界ジュニア選手権3位になったこともある人だったんですが、もうスケートをやめたいと思っていた。でも彼の親がペアとしてつづけることをすすめていたみたい。もうこれはゼロからのスタートというよりマイナスからのスタート。いまいち燃え尽き切れない2人が、組んでやりはじめたわけです。

スケートリンクでジョン・ボールドウィンさんとペアで練習をしている井上怜奈さん

私はアメリカの試合に出るために永住権を取得し、全米選手権までの数カ月の間に、テストを受け、予選会にも出なければならない。とにかく時間がない上に、ジョンは手の甲を骨折。私は足を疲労骨折、さらに宙返りで落下し、頭蓋骨にひびが入って前歯を折り、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に。そして全米選手権の結果はなんとビリから2番目。

それでも意外にジョンの方から、「時間をかけてちゃんと練習したら、絶対いいチームになれる。あと1年間真剣にがんばってみたい。怜奈はどう?」と言ってくれて。私も「ほんとうに真剣にやるなら、あと1年やってもいいよ」って。それからの1年間は自分たちで誇りに思えるほど練習しました。ペアってワインといっしょですよね。時間がたつほど、味がよくなる。違う環境で育った2人が、癖とかを少しずつ直して、ひとつのものにしていくための時間が必要だったんです。

——そして2004年・2006年の全米選手権でペア優勝。さらに2006年のトリノでは、史上初のスロートリプルアクセルも決めましたね。

この頃から、ようやくチームらしくなってきた、と感じました。2006年のトリノの試合の日は、亡くなった父の誕生日だったんです。なるべくいいプレゼントがしたいな、と思って。それはつまり、自分たちのできる精一杯のことをやる、ということでした。

——2008年1月、全米選手権。氷上のプロポーズは多くの人の心に残りました。

演技が終わってふりむくと氷の上にジョンがすわっている。よっぽど疲れたんだろうと思って顔を近づけると、彼はこう話してくれました。「怜奈と会わなかったら今の自分はない。これからの人生もいっしょに時間を過ごしたいから、結婚してくれますか?」って。ジョンと私がここまでやってこれたのは、お互いを尊重する気持ち、信頼関係があったからこそだと思います。

いつか結婚するとしたらジョン以外の人は考えていなかったから、女性としてうれしかったですね。ひとこと、Yesと答えました。そして会場のお客さんが、何が起こっているのか察して、ワーッて祝福してくれるのを見たときに、「これだけいろんな人が、私たちのことを考え、喜んでくれてる。スケートをつづけていてよかったなあ」と感激しました。

2008年1月の全米選手権で、演技後にジョン・ボールドウィンさんからプロポーズを受ける井上怜奈さん

あとから聞いたのですが、ジョンは朝起きたときに、その日の演技がうまくいくという根拠のない自信があって、そのときに思いついたみたいで。プロポーズのことは誰にも言ってなかったんです。だから指輪も用意してなくて。全米が終わって彼が最初に行ったのは、たぶん宝石屋さんだったと思います。

プロセスを楽しむことこそが、人生の意味だと思います。

——その後の経過はいかがですか。

今は1年に1回、検査に行ってます。じつは、病気のことを周りに言わなきゃよかった、と思ったこともありました。私もジョンも、いいスケーターであることを見てほしいし、そのことへの誇りも自信もある。がんを経験したからすごいって思われるのはいやだったんですよ。でも、病気で同じ思いをしている人から応援の手紙をいただいたり、はげまされたって声を聞いたりするうちに、私の経験が役に立っているのなら、こんなうれしいことはないと思えるようになりました。私が自然体で、いつもどおりの生活の中で、スケートが好きで楽しくてやってる、そのことが伝わって幸せな気持ちになってもらえるのなら、と思います。

肩を肩を寄せ合って笑顔の井上怜奈さんと、ジョン・ボールドウィンさん

——楽しそうに滑る、そのことが、井上さんの生き方と重なるように感じます。

自分の好きなことをとことん追求して、そのプロセスを楽しむことこそが、人生の意味だと思うんです。プロセスって、いいときばかりじゃない。どん底のときもある。でも、今生きてるんだったら、この瞬間を大事にして、悩むよりも楽しむ方がいい。私のチョイスはそっちですよね。

いいときも、わるいときも、人生を楽しんでいたい。私たちが今やってることって、今しかできないことだと思うんですよ。今しかできないことを精一杯やって、ちょっとでも長く輝いていられたら、と思います。「あの2人、まだがんばってるね」って言われるように。

——最後に、アメリカ、そして日本への想いを聞かせてください。

アメリカは私をタフにしてくれた。親に大事にされて日本に住んでいたら、私はここまで強くなれなかったと思います。私が親離れして、成長する機会をくれました。日本のよさっていっぱいあるけど、時々外に出てみないとわからないこともある。

相手の気持ちを尊重するのが、日本のよさのひとつだと思います。自分だけがよければというのではなく、みんなでいい生活ができるようにと考えるところ。最近そのへんが薄れてきているのかなとも思いますが、私は日本に生まれ、日本の家族で育って、日本の教育を受けてきたことに誇りを持っています。日本にいる人にもそう思ってほしいと願っています。

砂浜でリフトをするジョン・ボールドウィンさんと、井上怜奈さん

取材 2008年6月、7月 サンタモニカにて