がんのこと

がんの体験談 「生きる」ストーリー 井上怜奈さん②

がんの体験談 「生きる」ストーリー 井上怜奈さん②

ゼロからのスタートというより、マイナスからのスタート。

そんなときに怜奈さんご自身の体調に変化が。

父が亡くなって1年半ほどたった頃でした。
咳が止まらなくなったのです。風邪薬を飲んでも止まらず、夜も眠れない。知り合いの方から「肺炎かもしれないから診てもらったら」と言われ、検査をしたら肺がんだとわかりました。
がんはまだ最初のステージで、小さいものでした。初期の肺がんに自覚症状はないはずなので、もし、咳が長引いていなかったら、病院に行かず、見つかるのが遅れたかもしれません。

早期発見が大事である理由のひとつは、治療のオプションが多くなることだと思います。
私の場合、まだがんが小さかったから、手術で取ってしまう方法と、抗がん剤と放射線で治療する方法の2つから選ぶことができました。
スケートをつづけるには体力がいるけど、手術をすると、肺活量に影響があるかもしれない。
また、がん細胞の種類としては進行の早いタイプではないことも検査でわかった。それでまずは抗がん剤と放射線による治療を選択したわけです。

治療は入院でなく通院で行いました。アメリカではたいていの方は通院ですね。
副作用は、やはりありました。疲れやすかったり、むくんだり、髪の毛が抜けたり。
でも父の治療を見ているより、自分のときのほうがつらくなかった。がんになると、自分もさることながら、周りが大変なんですね。
今度は私が病気になったということで、母はすごくダメージを受けたと思います。
私は、もうなっちゃったらしょうがない、と、淡々と治療に通いました。
そして6か月目に入ったあたりで、レントゲンから影は消えていました。
治療後は体力が十分回復するのを待って、半年後にリンクでの練習を再開しました。

ジョン・ボールドウィンさんと出会ったのはその頃ですか。

そう、2000年の初め頃です。何度も彼のお父さんから電話をもらっていたけど、断わっていました。
私はあと1年シングルで選手生活したら引退しようと思っていたのです。
でもあまりに何度も連絡があるものだから、一度ペアで滑ってみた。そしたら、意外にしっくりきた。どうせあと1年、うまくいってもいかなくてもいいかな、くらいの気持ちで受けることにしたんです。
ジョンは子供時代にシングルで世界ジュニア選手権3位になったこともある人だったんですが、もうスケートをやめたいと思っていた。でも彼の親がペアとしてつづけることをすすめていたみたい。
もうこれはゼロからのスタートというよりマイナスからのスタート。いまいち燃え尽き切れない2人が、組んでやりはじめたわけです。

私はアメリカの試合に出るために、なんとか8月に永住権を取得しました。
それから翌年1月の全米選手権までの数か月の間に、テストを受け、予選会にも出なければならない。
とにかく時間がない上に、ジョンは手の甲を骨折。
私は足を疲労骨折、さらに宙返りで落下し、頭蓋骨にひびが入って前歯を折り、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に。
そして全米選手権の結果はなんとビリから2番目。

それでも意外にジョンの方から、「時間をかけてちゃんと練習したら、絶対いいチームになれる。あと1年間真剣にがんばってみたい。怜奈はどう?」と言ってくれて。
私も「ほんとうに真剣にやるなら、あと1年やってもいいよ」って。
それからの1年間は自分たちで誇りに思えるほど練習しました。
ペアってワインといっしょですよね。時間がたつほど、味がよくなる。
違う環境で育った2人が、癖とかを少しずつ直して、ひとつのものにしていくための時間が必要だったんです。

そして2004年・2006年の全米選手権でペア優勝。さらに2006年のトリノでは、史上初のスロートリプルアクセルも決めましたね。

この頃から、ようやくチームらしくなってきた、と感じました。
2006年のトリノの試合の日は、亡くなった父の誕生日だったんです。
なるべくいいプレゼントがしたいな、と思って。
それはつまり、自分たちのできる精一杯のことをやる、ということでした。

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