19歳でがんが見つかった。

大学1年の夏のことでした。受験勉強からも解放されて、やっとこれから人生が始まる、大人になる、って思っていた矢先に肝臓がんが見つかりました。その夏の前からお腹がちょっと出てきていて、太ったかな? なんて思っていたのですが、実はそれががんでした。大きくなって肺を圧迫するようになって、肺の痛みで肝臓がんが発覚したのです。

私には直接教えてくれませんでしたが、家族は「余命半年」と宣告されていました。がんになってからの人生で、一番印象に残っている場面があります。それは、最初の検査結果を聞いた母の表情です。先生から別々に話を聞いた母と私。私が先に話を終えて廊下で待っていると、診察室から母が出てきました。それまで見たこともない表情の母。この世の終わりだという顔をしていました。この大きさなら転移しているだろうし、手術も、放射線治療も、抗がん剤治療もできない。そんな状況でした。

「弘子、助かるよ、手術できるよ」と母は路上で泣いた。

大学はしばらく休学することに。それまでは勉強、勉強と厳しかった母も一変して優しくなりました。当時発売されたiPad3を買ってくれると言うのでなんばに買い物に行きました。それまで仕事が忙しくてあまりかまってくれなかった母なりの気遣いだったのかもしれません。

なんばを歩いていると母の電話が鳴りました。電話に出た母はいきなり、泣き出したんです。大通り、めっちゃ人歩いていたのに人目もはばからず泣きながら、笑いながら私の方にやってきて「弘子、助かるよ、もう大丈夫だよ、手術できるよ」って抱きつかれました。病院での詳しい検査の結果、転移がないことがわかり、できなかったはずの手術ができることになったのです。さすがに私も一緒に号泣でした。

右手で前髪を抑えて微笑む山下弘子さん

手術前、ぎりぎりまで明るくヘラヘラ笑ってた。

手術の日は、びっくりするほど普通の一日でした。私、がん患者のドラマを全く見たことがなかったんです。だからがんに対する嫌なイメージも19歳の私はそんなにもっていませんでした。もちろん多少の緊張はありましたが、変に泣いたりすることもなく、私は私のままでした。「手術室、めっちゃ消毒されてるんですね」とか「ここに寝るんですね、お願いしまーす」とか看護師さんに話しかけて。

「手術室でこんなに明るいヘラヘラした患者を見たのは初めて」と主治医からは言われました。麻酔しているのに、意識が途切れる瞬間まで笑っていたそうです。お腹の傷跡はすごくきれいに縫ってくれました。笑顔作戦、成功です。

手紙を両手で持ってじっと見つめる山下弘子さんの横顔

新学期、復学直後、肺への転移が見つかった。

4月に新学期が始まると、いよいよ大学へ復学となりました。手術もしたし自分では大丈夫だと思い込んでいて、復学するつもりでいっぱいでした。ところが新学期のオリエンテーションの合間に診察を受けたところ、肺への転移が見つかってしまいました。同時に肝臓がんの再発も確認されました。天国から地獄へ、という感じ。2回目の手術をすることになりました。手術の規模からすると、前回の方が大きかったのですが、私にとっての心の衝撃は真逆でした。

手術の前日、高校時代の友人がサプライズゲストとして先生を連れてきてくれました。二人ともクリスチャン。二人が私の手を握って祈ってくれました。「弘子は今ものすごく苦しい状況にあるかと思います、神様、どうか弘子を心から支えてください」というような内容でした。友人と先生の手に温かく包まれながら、お祈りの言葉を聞いているうちに少しずつ自分と向きあうことができました。

右斜め前をしっかり見つめる凛々しい表情の山下弘子さん

がんがあったからこその幸せに注目する。

友人と先生に祈ってもらってから、手術後、聖書をもう一度開いてみました。「敵を愛しなさい」「神様は乗り越えられない試練は与えない」「乗り越えられないときは、それから逃れるための道も共に送ってくださいます」とありました。それを読んでいるうちにがんに感謝してみよう、という考えになりました。がんがあったから、母との関係がよくなった、いろんなことに挑戦できた。がんを敵として排除するのではなく、がんがあったからこその幸せに注目したほうが、自分が幸せになれる。だったら、そうしよう。人生の道理を教えてくれたがんに感謝して、共存しよう。とそのときは思っていました。

でも、がんに関連するさまざまな活動をしているうちに、がんから卒業したいと考えるようになりました。「がん患者」のままで自分は一生終えてもいいのか。私は「がん患者」ではなくて、がんである前に、一人の人間、一人の山下弘子でありたい。すると、がんと共存というのも違う気がしてきたのです。がんによって教えられた道理は自分の土台として定着しているので、がんがなくなってもこれらは消えることはない。だとすれば、感謝の気持ちで本当にがんから卒業したい。今は、早くがんを治したいと思うようになりました。

屋外で風を浴びながら左前をみつめる山下弘子さん

「弘子を応援するために丸坊主にしました。」Facebookにアップされた先生の笑顔。

薬の副作用なのか、原因はわかりませんが、治療のせいで髪の毛が抜けたこともありました。髪の毛って本当に大事で、バッサバサ抜けていくのが辛くて、泣きました。副作用って怖いと思ったし、すごく悔しくて、嫌で。外出するのも嫌になり、人と会いたくなくなり、私は誰かと会うことによって生きる喜びや幸せを感じていたので悪循環に陥ってしまいました。

そのとき、母校の先生が、どうしたら私を元気づけてあげられるだろうと考えて、私と同じように丸坊主にしてくれたんです。元々ショートヘアの体育会系の女性の先生です。Facebookで「弘子を応援するために、丸坊主にしました。イエーイ」というコメントが添えられた先生のものすごくいい笑顔の写真をみて、丸坊主でも笑うとこんなに素敵なんだ、外見だけでなく内面の美しさって大事だったんだな、と実感しました。そして先生を始め、いろんな方が、いろんな友達が落ち込んでいる私を心配してくれているんだと思うと、自然と立ち直ることができました。

がんになる前は、がん保険に興味ゼロでした。

がんになってみると、2人に1人ががん[*1]と診断される時代だということがわかり、いろんな治療費がかかることがわかりました。いろんながん患者の方をみていると、がんになる前にちゃんとがん保険に入っておくべきだと思うようになりました。

お金によってある程度の不安は減らせると思います。がんって診断されて、病気で自分の命がどうこうと悲しんで絶望するよりも、がんと診断されてからの周りの環境変化によってストレスを抱えたり、家族関係、お金関係、今までの生活が通常通りにできなくなったりすることで不幸になり、それによってまた悪循環に陥る人が多いです。

私はこの病気には2つの病があると思っています。それは体の病と心の病で、体の病の方は案外事実としていつかは受け入れられるのですが、それよりもずっと後まで影響してくるのが心の病です。私の場合、がんがきっかけでやりたいことにいろいろチャレンジできるようになったのですが、それは親のおかげです。最低限の生活が保障されていて、日常生活において自分自身が金銭面で心配することがなかったから。だからこそ、自分自身の幸せについて考えることができたんだと思います。

[*1]国立がん研究センターがん情報サービス『がん登録・統計』の「最新がん統計」

公園で髪を整えながら微笑む山下弘子さん

がんになって、「いい子」をやめた。

それまでは、ものすごくいい子だったんです。10歳まで母と一緒にいなかったので、コミュニケーションのとり方がわからなくて。誰かに認めてもらって初めて自分があると認識していました。親の前ではいい子ども、先生の前では完璧な生徒、後輩の前では完璧な先輩、みんなから嫌われないようにしていました。

でもがんになって、「いい子」をやめました。今は、誰かに認めてもらわなくても、特に何かを成し遂げなくても、ただ生きていることに価値がある。自分らしく生きないと、せっかく生まれてきたのに何も楽しめない、と思うようになって、徐々に修正していって、今の自由奔放な自分がいます。自動車免許とったり、ヨガやフラダンスもしました。富士山登ったり、メキシコでスキューバダイビングしたり、今は週に2、3回ジムに行ったり、とりあえずチャレンジしよう、人生なんでも経験しよう、と思っています。

年の離れた小学生の弟と妹にも「後悔のないように、自分が好きだ、したい、と思うことをどんどんしなさい」と言ってます。生きているだけで幸せなことってたくさんあるし、悲しいこともたくさんあるけど、それも含めて、楽しい人生。いっぱい楽しんで、いっぱい泣いて、いっぱい笑って、いっぱいクレイジーなことして自分を100%愛して生きていこうと思います。

口元を左手で軽く押さえてにっこり笑う山下弘子さん

2016年1月現在の情報を元に作成

※がんを経験された個人の方のお話をもとに構成しており、治療等の条件はすべての方に当てはまるわけではありません。