アフラックの軌跡

日本初のがん保険とともに歩みはじめたアフラックは、創業の想いを受け継ぎながら、
「生きる」を創るリーディングカンパニーを目指して、さらに前に進んでいきます。
プロローグ

アフラック誕生秘話

エイモス家3兄弟(左からポール、ジョン、ウィリアム)

米国での創業と世界初の<がん保険>発売

1955年11月17日、Aflacは、ウィリアム、ジョン、ポールのエイモス家の3兄弟によって、米国ジョージア州コロンバス市からスタートしました。

創業当時は、小口の生命保険を訪問販売していましたが、激しい競争のなか、何度も倒産の危機に瀕しました。そこで他社との差別化を図るため、1958年に世界で初めて<がん保険>を開発。給付金の用途を限定せず、治療費や通院のための宿泊費などがん治療にともなう経済的負担を保障するこの商品は、当時としても大変画期的なものでしたが、発売からしばらくは、消費者の関心はさほど高くはありませんでした。

最初の自社ビル(米国ジョージア州コロンバス市)

その後、不幸にもエイモス兄弟の父親ががんを患い、1年間の闘病の末、他界。肉親の愛情をもってしてもがんを克服できない現実のなかで、少しでもその悲しみを和らげようと、それ以降、Aflacはがん保険に特化していきました。

1970年、大阪万国博覧会の開催中に初来日した当時社長のジョン B. エイモスは、多くの日本人が風邪予防のためにマスクをしているのを見て、その健康や衛生に対する意識の高さに着目、その頃すでにがんが死因の2番目にまで増加していた日本に進出することを決意しました。

困難を極めた日本進出への道のり

当初、Aflacは日本進出に際して、複数の生命保険会社に提携を打診しましたが、日本ではまったく無名の存在だったこと、がんは“不治の病”と恐れられその話題すら避けたがる風潮だったことなどもあり、いずれの会社もがん保険への関心は低く、提携交渉はすべて不調に終わりました。

そこで、単独進出に向けて、当時損害保険の代理店を営んでいた大竹美喜(第4代社長)が協力者となり、進出実現のために東奔西走することになりました。当初、がん保険は前例のない保険商品であったことから、主務官庁である大蔵省(当時)だけでなく、厚生省(当時)からも承認を得なければならず、事業認可取得の道のりは困難を極めました。それでも各省との交渉が本格化する頃には、がん保険の意義に共感した松井秀文(第5代社長)らが加わり、認可取得へ向けて邁進していきました。

日本での事業認可取得を米国本社年次総会で発表する大竹美喜(左)とジョン B.エイモス(右から二人目)

認可申請において困難を極めたことのひとつが、がんに関するデータの少なさでした。当時、日本では死亡保障の保険が中心で、がんについての死亡統計はあるものの、入院などに関する全国的な統計は存在しませんでした。そこで、創業メンバーは、宮城、岡山、鳥取など独自調査を行っていた各県の病院や役所などから一つひとつデータを集め、保険商品設計のための基礎データを作っていきました。

そして、時を要すること4年――1974年10月1日、ついに認可を取得し、同年11月15日、アフラック日本社*と日本初の<がん保険>が誕生しました。当局との折衝の長期化から米国本社(当時)は日本進出を一度はあきらめかけましたが、がん保険の必要性に対する日本の創業メンバーの信念によって新しい価値がもたらされました。

  • *American Family Life Assurance Company of Columbus (Aflac)の日本支店
1974年~1984年

日本初の<がん保険>を発売

<がん保険>最初のパンフレット

日本初の<がん保険>誕生

1974年11月15日、アフラックは日本初の<がん保険>を発売し、日本での営業を開始しました。

「がんに苦しむ人々を経済的苦難から救いたい」

その想いだけで未知の分野への挑戦のために集まったのは、元鉄鋼マン、自衛隊出身者など生命保険業界の未経験者ばかり。まさにベンチャー企業としてのスタートでした。当初、東京・日本橋の小さなオフィスビルで営業を開始しましたが、その後、壮大な夢に向けた決意を示すかのように、当時では日本一の高層ビルだった新宿三井ビルに移転し、以来、本社所在地となっています。

創業当時の社員(新宿三井ビルの前で)

当時、日本の生命保険営業は、営業職員と呼ばれる女性を中心とした販売チャネルが主流でしたが、アフラックは自社の営業職員を抱えない代理店制度を採用しました。時代はオイルショックによる不況の真っ只中。しかし多くの企業が、収益多角化のために、グループ会社として保険代理店を立ち上げるなか、アフラックは創業当初から銀行、新聞社、テレビ局、電力会社などの大企業を中心とした企業系列の代理店を得ることで、強固な販売網と顧客基盤を築くことができました。

最初のがん保険は、「入院給付金」と「死亡保険金」だけのシンプルな保障でしたが、がんの再発リスクを考慮し、入院給付金の限度日数を無制限、保障期間も一生涯としました。1981年には、脳卒中を抜いてがんが日本人死因のトップになったことで、がんに対する経済的な備えへの関心も高まり、当初の予測をはるかに超えるスピードでがん保険も広く知られるようになりました。

こうして創業10年目には、代理店数は2,000店を超えるまでに広がり、がん保険の世帯普及率(保有契約口数/全国世帯数)も10%に達しました。

第1回目の代理店講習会

お客様を第一に考える企業文化

一方、がん保険に関わる給付金のお支払いは、創業の翌年から始まりました。患者本人への告知がほとんど行われていなかった当時、がんであることをご本人に気づかれないように給付金をお支払いすることは<がん保険>が抱える非常に大きな課題でした。書類送付には市販の白い封筒を使い、差出人は担当者個人の名前のみ。宛先も事前にご家族と決めた住所とし、電話連絡もご自宅以外を原則とするなど、さまざまな工夫と試行錯誤を繰り返していきました。

こうして、お客様を第一に考えた誠心誠意の配慮を積み重ねるなかで、アフラックの企業文化と精神が培われていきました。

1985年~1994年

時代の先を読む経営

<痴ほう介護保険>発売時のパンフレット

“生きるための保険”に特化した戦略

日本では遺された家族の生活保障を目的とした生命保険が主流でしたが、アフラックは、お客様自身が“生きるための保険”に特化した独自路線を歩みました。

創業から丸10年を経た1985年には、<痴ほう介護保険>と<医療保険>を相次いで発売。特に介護問題の到来をいち早く予見し、世界に先駆けて開発した痴ほう介護保険は、当時まだ発症率など認知症に関するデータがほとんどないなか、地方自治体や海外のデータを精緻に検証しながら開発したもので、同年、保険商品としては初めて「日経・年間優秀製品賞」において最優秀賞を受賞しました。

また、がん保険においても、この分野のパイオニアとして不断の商品改良を重ね、1990年、がんと診断された時点で一時金を支払う「診断給付金」と通院治療をカバーする「通院給付金」を新たに加えて保障内容を大きく充実させた<スーパーがん保険>を発売。
がん治療の環境変化に的確に対応するとともに、がん治療に対する経済的負担をよりきめ細かく支援することが可能となりました。

そして、1992年にはがん保険の保有契約件数が1,000万件を突破し、世帯普及率(保有契約件数/全国世帯数)も25%にまで拡大しました。

アフラックスクエア(東京都調布市)

サービス向上のため社内体制を強化

保有契約件数の拡大にともなって、地域に根ざしたきめ細かなお客様サービスに向けた社内体制の強化にも取り組みました。迅速な保険金・給付金のお支払いのために給付部門を大阪、名古屋、広島にも設置。1994年には、東京都調布市に初めての自社ビル「アフラックスクエア」を完成させ、本社部門およびコンピュータセンター等を統合し、業務効率を格段に向上させました。

バブル経済の活況呈す1987年、アフラックはそれまで運用資産として保有していた株式をすべて売却し、それによって得た資金を日本国債などの安全性の高い長期確定利付資産に振り向けました。お約束した保険契約を確実に守るための冷静な判断でした。このまま株価は上昇し続けると誰もが疑わなかった当時、この決断はさまざまな批判も受けましたが、その後バブルが崩壊し、日本中が大不況に見舞われるなか、アフラックは自社の運用資産をほぼ無傷で守り続けることができました。この保守的な運用方針は現在も受け継がれ、アフラックの健全な財務内容を築く礎となっています。

アフラック全国アソシエイツ会 設立総会

創業以来、がん保険の普及に向けて使命感と情熱を持ってアフラックとともに歩んできた販売代理店。創業15周年に当たる1989年には、アフラックと“共通の目的に向かって進む仲間”との思いを込め、代理店の呼称を「仲間」を意味する「アソシエイツ(Associates)」に変更しました。同年、アフラックとアソシエイツ相互のさらなる発展を目指して「アフラック全国アソシエイツ会」を設立。アフラックとアソシエイツはまさに相利共生のパートナーとして、また、ひとつの目標に向かって進む運命共同体として、お互いの連帯感を一層深いものとしていきました。

1995年~2004年

お客様本位の経営姿勢を堅持

商品パンフレット

お客様のニーズを踏まえた商品・販売チャネルの拡充

この時期、日本経済はまさに激動の時代を経験しました。バブル経済の崩壊後、日本版金融ビックバン構想のもと、金融市場の活性化に向けたさまざまな規制緩和策が打ち出されました。しかし、バブル崩壊の爪痕は深く、銀行、証券、保険会社などの経営破綻が相次ぎ、金融不安が広がりました。

保険業界では、1993年から始まった日米保険協議による紆余曲折を経ながらも競争促進に向けた規制緩和が進み、2001年には、生命保険(第一分野)と損害保険(第二分野)の中間に位置するがん保険や医療保険などのいわゆる“第三分野”への大手生損保の参入が解禁されました。またこの時代、サラリーマンの医療費自己負担割合の段階的な引き上げや平均寿命の伸長を背景に、生活者の間に“長生きするリスク”への備えに対するニーズが急速に広がっていきました。

こうしたなか、アフラックはお客様本位の経営姿勢を重視し、大切なご契約を長期にわたってしっかりと守っていくために財務基盤の一層の強化に努めるとともに、お客様ニーズを踏まえた商品ラインアップをさらに強化していきました。

1995年には、割安な保険料でがん、脳卒中、急性心筋梗塞の3大疾病を保障する<特約ワイド>を、1998年にはがん以外の病気・ケガによる入院・手術を保障する<特約MAX>を発売。そして、2000年には「高度先進医療給付金」「在宅緩和ケア給付金」等を設けた大型の新主力商品<21世紀がん保険>を発売しました。さらに2002年、一生涯の医療保障を提供する<一生いっしょの医療保険 EVER>を発売。これは、低廉な保険料で終身医療保障をはじめて実現した医療保険として大ヒット商品となりました。

第一生命との業務提携 調印式(左からエイモスCEO、第一生命森田社長(当時)、松井社長(当時))

一方、アフラックは保険商品とともに販売チャネルの拡充にも取り組みました。1998年には外資系生保で初めて全都道府県に支社を設置し、全国のアソシエイツ(販売代理店)の支援態勢を強化しました。同年、来店型店舗「アメリカンファミリーサービスショップ」(現 アフラックサービスショップ)の1号店がオープンし、以降、全国各地に展開。現在も、お客様が住む街の“保険のコンシェルジュ”として保険の見直しや給付のご相談などをお受けしています。また、2000年には、第一生命保険相互会社(当時)との業務提携を発表。がん保険や医療保険などの第三分野市場の完全自由化を目前に控えるなか、アフラックは日米生保の初の強力なパートナーシップを結成しました。

コーポレートキャラクターの「アフラックダック」

「アフラックダック」の登場

2000年、米国では「家族」や「親しみ」を表わし、また"Aflac"の発音がアヒルの鳴き声"Quack"(クワック)に近いことからコーポレートキャラクターとして「アフラックダック」を起用。アフラックダックを使ったテレビCMによって、全米での社名認知度は約10%から90%以上へと大きく向上しました。2003年、米国ではすでに有名となったアフラックダックを日本でも正式に起用し、「よ~く考えよう~♪」などのCMソングとともに大変な話題となりました。その後、「まねきねこダック」などさまざまなダックが登場し、今では、まさにアフラックの顔として活躍しています。

2005年~2017年

お客様にもっとも選ばれる
生命保険会社を目指して

多様化するお客様ニーズへの対応

2005年、新たなブランドマークを採用し、ブランドプロミス「『生きる』を創る。」を策定しました。ブランドプロミスには、「病気やケガなどに直面しても、自分らしさを大切にし、充実した人生を創っている」お客様の姿と、「生きるための保険のリーディングカンパニーとして、これからも先進的な商品・サービスを創っていく」というアフラックの強い意志が込められています。
そして、このブランドプロミスのもと、アフラックは商品のリニューアルやラインナップの拡充を一層加速していきました。2006年、多様化するお客様ニーズに合わせて、ひとつの契約で死亡保障・医療保障・介護保障などマルチ保障を実現した終身保険<WAYS>を発売しました。主力のがん保険では、2007年の<がん保険フォルテ>に続き、2011年の<生きるためのがん保険Days>、そして2014年には最新のがん治療環境を背景に開発した<新 生きるためのがん保険Days>を発売しました。さらに、過去にがんを経験された方向けの<生きるためのがん保険 寄りそうDays>を2016年に発売し、アフラックのCSV経営を体現する画期的な商品として、多くのお客様からご支持をいただいています。医療保険分野においては、同市場を牽引してきた<EVERシリーズ>をリニューアルした<ちゃんと応える医療保険EVER>を2013年に発売、また2016年には、新たな保障領域となる<病気やケガで働けなくなったときの 給与サポート保険>を発売するなど、常にお客様視点に立ち、医療環境やお客様ニーズの変化に的確に対応した商品を提供しています。

「よくわかる!ほけん案内」の店舗

保険商品の多様化・複雑化に加え、インターネットの普及によって保険に関する情報が氾濫するなか、自分に合った最適な保障について気軽に相談したいとのニーズが増えてきました。そこで、全国各地で展開していた来店型店舗「アフラックサービスショップ」に加え、2012年10月には、来店型店舗「よくわかる!ほけん案内」を大都市圏を中心に開設し、初めて保険のことを考えるお客様にもわかりやすいコンサルティングを行っています。
また、2013年には日本郵政株式会社、大同生命保険株式会社と業務提携を行いました。全国の金融機関(都市銀行・地方銀行・信用金庫など)や郵便局などでもアフラックの商品が販売されるようになるなど、お客様との接点は年々拡大しています。

社員とアソシエイツによる街頭募金活動

「『生きる』を創る。」をメインテーマとした
社会貢献活動

「がんに苦しむ人々を経済的苦難から救いたい」というアフラック創業の想いが受け継がれているものは、保険商品やサービスだけに留まりません。アフラックは、アフラックとかかわるすべてのステークホルダーに対する社会的責任を着実に果たしたうえで、社会と共有できる価値を創造していく企業経営(CSV経営)を実践しています。そのため、社会貢献活動については、CSV経営の考え方に基づき、日本で最も長くがんとともに歩んできた保険会社としての強みを活かし、その本業との相乗効果が発揮できる領域に戦略的に取り組んできました。社員やアソシエイツとともに「『生きる』を創る。」をメインテーマとして、「小児がん・AYA世代支援」「がん経験者支援」「がんに関する啓発活動」の3つの分野に注力した活動を行っています。

「小児がん・AYA世代支援」については、1995年に設立した、小児がん経験者やがんで主たる生計者を亡くした高校生のための「アフラック小児がん経験者・がん遺児奨学金制度」や、2001年に1棟目をオープンした、小児がんをはじめとする難病治療のために大都市圏の専門病院に通う子どもやそのご家族のための総合支援センター「アフラックペアレンツハウス」、そして2006年より小児がんに対する認知、理解促進を目的として開始した「ゴールドリボン運動」の推進など、幅広い活動を展開しています。

2018年~現在

「生きる」を創る
リーディングカンパニーへの飛躍

アフラック生命保険株式会社として営業を開始

名実ともに日本の生命保険会社に

アフラックは、お客様やビジネスパートナーをはじめとするステークホルダーの期待に応え、これまで以上に日本社会に根差してさらなる共有価値を創造していくために、2018年4月、米国生命保険会社の支店から日本法人「アフラック生命保険株式会社」として新たなスタートを切りました。

この日本法人化に合わせて<生きるためのがん保険Days1>を発売し、2020年には医療技術の急速な進化によって大きく変化する治療環境を踏まえて、治療費に関する保障を1つにまとめることで保障の不足や重複が生じない仕組みを実現した<生きるためのがん保険Days1 ALL-in>へと進化させました。

「アフラック・イノベーション・ラボ」を開設

また、最新のデジタル技術と金融を融合させたフィンテックの活用及び企業価値の向上につながる新規事業の推進をさらに加速させるための拠点として南青山に「アフラック・イノベーション・ラボ」を2018年に開設しました。さらに、2019年には「アフラック・イノベーション・パートナーズ合同会社」を設立*し、スタートアップ企業への出資や協業を通して「キャンサーエコシステム」の構築に取り組みながら、健康増進、病気の早期発見、治療後のアフターケアやQOL向上まで、お客様をトータルにサポートすることを目指しています。

  • *アフラック・イノベーション・パートナーズ合同会社は、アフラック・インコーポレーテッドの子会社です。

アフラックは、創業50周年を迎える2024年に目指す姿として策定した「Aflac VISION2024」において、「生きる」を創るリーディングカンパニーへの飛躍を掲げています。これは、がん保険や医療保険を中心とする「生きるための保険」のリーダーであり続けるとともに、日本社会に対してさらなる価値を提供していくために、コアビジネスとしての保険事業に留まらず、保険の枠を超えた領域でも新たな価値を創造していくという企業姿勢を表したものです。そこで、2020年~2022年を「生きる」を創るリーディングカンパニーへの飛躍に向けて経営基盤を強化する重要な期間と位置付け、2020年2月に「アフラック 中期経営戦略(2020~2022年)」を策定・公表し、次なる成長に向けて取り組みはじめました。