大学2年生、19歳のときに骨のがんが見つかりました。

「やんちゃガール」と言われていた少女時代。小学生のころは水泳、中学からは陸上をやっていました。早稲田大学に進学し、応援部チアリーダーズ(以降「チア」と表記)に入部。1年生のときは東京での大学生活に慣れるのに精一杯でした。

2年生の秋、チアだけでなく勉強もして将来の夢を探していこう、という時期でした。右足首が痛くなり、最初は捻挫だと思っていました。11月にはチアのステージがあり、その前には早慶戦も控えていました。テーピングしたり、アイシングしたりしながらチアを続けていました。チアのステージが終わった12月に近所の整形外科を受診しました。痛みもすごく、捻挫ではなく疲労骨折かなと思っていました。

レントゲン画像を見た先生は「なんじゃこりゃ」と驚かれて、その日のうちに大学病院に行くことになりました。先生は言葉を選びながら「僕が君の父親だったら、もっと専門の病院に行くことをすすめるよ。例えばがんセンターとか」と。気仙沼から母も上京してくれて、一緒にがんセンターへ行きました。「9割方、骨肉腫でしょう」と告知されました。

右足を失って、どうやって生きていけばいいのか。涙があふれた。

「けがだと思っていたのに、がん?」私は、骨のがんが存在することすら知りませんでした。先生によると、小児がんの一種で、命に関わる病気であること、治療は9~10カ月はかかる、ということでした。

そして「すべての治療がうまくいっても右足の膝から下は残せないでしょう」と言われました。母は私の気持ちを代弁するかのように「真海の足は命と同じくらい大事なんです」と先生に言ってくれました。スポーツは自分の生きがいだったので、足を失って、どうやって生きていけばいいのか。将来が見えなくなりました。

先生は「今は義足が発達しているから、またスポーツができるよ」と教えてくれました。義足で生活する人に19年間会ったこともなく、当時はパラリンピックの情報もなかったので先生の言葉が私のかすかな望みになりました。

木にもたれかかって微笑む谷さん

抗がん剤、手術、さらに抗がん剤。
いつ逃げようかというほど副作用はきつかった。

入院すると病理検査の後、すぐに治療が始まり、抗がん剤の副作用がきつかったです。気持ち悪くてご飯も食べられない。倦怠感も続き、髪も眉毛も抜けました。4人部屋ですてきなお姉さんたちに出会えたのは幸いでした。元気なときには、ランチに外食に出てみたり。退院したら一緒に遊びに行こうねと話したり。前向きな気持ちでいられました。

治療の効果か、足の痛みもとれてきたので、手術が本当に必要なのか、先生と話しました。「先生のお子さんが同じような状況でも切断しますか」と聞いたら「もちろん。命の方が大切だから」とお答えになったので、生きていくために私にとっては最善の方法なのだと納得することができ、手術を受けました。さらに転移を防ぐために抗がん剤。入院生活は10カ月に及びました。

がん保険に入っておけばよかった。

未成年だったし、私はがん保険には入っていませんでした。東京で一人暮らししていて、仕送りもしてもらっている状況で、さらに治療費がかかるのは親に申し訳ない気持ちでした。最初の抗がん剤治療から、手術、そして手術後の抗がん剤が終わるまで、約1年間の負担というのは大きかったと思います。親は「そこは心配しないで」と言ってくれたので話題にしないようにしていました。

退院後、大学に復学。ウィッグを2つ買いました。

大学に戻って、現実を見ました。つらい治療とは別に、普通の生活に戻ってからの方が気持ち的にはさらに落ち込みました。なれない義足、脱毛を隠すためのウィッグ。ウィッグは高かったけれど、少しでも前向きになってもらいたい、と祖母が2つ買ってくれました。就活用と、ちょっと茶髪のと。服や靴も買い直し、一日一日を生きていくことで精一杯。授業に出ても誰とも話さず家に帰って、泣いていたりしました。

そんなときに入院中の仲間が旅立ってしまい、こんな自分でいいのかと問いかける自分もいました。何か目標が欲しい。自分で動きだすことにしました。

夢、目標があるから立て直せたのだと思う。

ただがんばっても達成できないのがスポーツの世界。目標を作ってそれに向けてがむしゃらに努力しなければ達成できない。その考え方は子どものころからの癖のようなもので、私の身体にしみついています。何でもいいからスポーツにトライしようと思い、水泳に出合いました。水泳は義足を外してやるので、うまく歩けなくてもできるのです。早速プールに行って、泳げることを確かめました。またスポーツができる。とても嬉しかったです。

限界のふたを外す。

義足になって、がんばってもこのくらいかな、とか、やってもできない、という考え方を捨てました。とりあえず限界のふたを外してチャレンジしてみよう、と。そうするとスポーツに関しても、これまで引き出せていなかった可能性が自分の中に色々あったので、強く自分を信じてあげることの大切さを感じています。失敗することを恐れなくなりました。

義肢装具士の臼井二美男さんとの出会いもありました。「ちょっと走ってごらん」と言われて、なれない義足で走ったときの感覚は忘れられません。風を感じるってこういうことだったな、とワクワクしました。義足になっても両足で地面を蹴って走っている。すべてを乗り越えられる気がしました。

再びスポーツにチャレンジするようになり、一つ一つのことに感謝の気持ちを持てるようになりました。ご飯がおいしい。こんな出会いがあった。幸せをたくさん感じるようになりました。心の持ち方ひとつでこんなにも見える景色が変わってくるのかと感じました。

走り幅跳びで大会に挑戦しました。

やるからには、目標を持ちたいというのが常にあったせいか、練習するなら大会に出たい、というのは自然な流れでした。一時期自分らしさを見失いそうになりましたが、目標を持って生きることの大切さを感じ、目標を見つけてからは、自分でも実感できるくらい前向きになっていきました。

トライアスロンで自転車を漕ぐ谷さん

走り幅跳びで国内の大会に出るうちに、パラリンピックの選考会に挑戦することになり、アテネ、北京、ロンドンと3大会連続出場することができましたが、途中、記録も伸び悩んだり、踏み切る足を思い切って変えたり、うまくいかない時期もありました。

2011年の東日本大震災では気仙沼の実家も被災しました。報道を見ながら6日間家族と連絡がとれず、足を失ったときより、つらかったです。命の大切さを改めて感じました。

もう一度チャンスをもらった自分の命を輝かせたい。

東京オリンピック招致のスピーチは、多くの人に支えられてその場に立っていることを実感できた出来事でした。スポーツの力を生きていく力に変えたい、それをみんなに広げていけたら、という気持ちで話しました。

結婚して、2015年に出産をしました。これまでもう一度チャンスをもらった自分の命を輝かせたいと思って生きてきましたが、次は子どもの命を輝かせたいと思うようになりました。3歳の息子は1歳にならないうちから、先に目を覚ますと、私のところに義足を持ってきてくれるんです。教えたわけでもないのに、母が歩くために必要だと認識しているんですね。

心に壁をつくらず、一人ひとり個性があるので、義足もその一つだととらえられる社会になるといいなと思います。想像以上のプレーをすることで「おー!」と純粋に驚いてもらったり。これからもスポーツを通して体現していきたいです。

トライアスロンで沿道を走る谷さん

2018年8月現在の情報を元に作成

※がんを経験された個人の方のお話をもとに構成しており、治療等の条件はすべての方に当てはまるわけではありません。