「ママががんじゃなくて、ほんとうによかった」

——瞳ちゃんはどんなお子さんでしたか?

生まれたとき、とても目が大きくて、それで瞳と名づけました。冗談が大好きで、どこでも歌いはじめるし、踊るし、家の中でもコントしほうだい。そして周りの人にも動物にも、自分はさしおいてでも何かやってあげたいという気持ちが小さいときからありました。

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うちは離婚をきっかけに母子家庭になったんですが苦労の連続で、弱くて泣き虫な私に、瞳はいつも「私がママを守る」と、小さい頃から口癖のように言ってくれました。「大丈夫よ、私がいるから」と。私にとっては、瞳は右腕であり、戦友でした。転校も何回も余儀なくされて、試練と逆境の中で、あの子の芯の強さが目覚めていったのかな、と思います。

——そんな瞳ちゃんが、がんになったのですね。

11才のときです。遊んでいたときに偶然ぶつかった瞳の右足に痛みが走りました。検査の結果、右大腿骨骨肉腫、肺に2センチの転移、余命半年と告げられました。私は息ができないほど苦しくて、2週間すごく悩みましたが、「瞳なら絶対がんに勝てる」と信じ、すべてを告知することにしました。

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瞳は、私の話をまばたきひとつしないで聞いていましたが、大きな目から、真珠のような涙がポロポロ音をたてるように落ちてきました。そして言ってくれたのが、「ママががんじゃなくて、私ががんで本当によかった。ママががんだったら、私はつらくて1週間生きていけなかった」この子はこの期におよんで、まだ私のことを考えてくれている! 私は瞳をギューッと抱きしめて、「今までずっと弱いママが、瞳ちゃんに守られてきた。でもこれからは、ママが全身全霊で瞳ちゃんを守るよ、いっしょに勝とうね」
すると瞳は「私もそう思う。私が負けるはずがない」って言って、その後けろっと、何事もなかったように庭ではしゃいでいたのをおぼえています。

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史上最強の治療薬、瞳スーパーデラックス誕生。

——瞳ちゃんは、どういうふうに病気とむきあったのですか。

告知をしてからの瞳は変わりました。真っ赤な抗がん剤抗がん剤をにらみつけて「私のいい細胞壊しちゃだめよ! がん細胞だけ殺しなさい! わかった?」と。絶対負けるもんか、という気迫です。その結果、脱毛以外ほとんど副作用はありませんでした。そして絵が得意だったから、毎日毎日、自分の体の中の白血球とがん細胞が戦い続ける絵を描いたんです。すると1ヶ月後に肺がんが消えてしまって。右足の骨肉腫も10分の1になりました。お医者さんも驚いていました。

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——絵にこめた願いが、実現していく。

瞳が描く絵は、すごく評判がよくて、順番待ちだったんです。両腕に抗がん剤を受けているから1枚描くのに1日か2日くらいかかるんだけど、きれいに描いて、裏に「絶対負けないで、いっしょに退院しようね。 瞳」と書いて、病院でいっしょに病気と闘っているおじちゃん、おばちゃんや子供達にあげていました。でも現実は容赦なく襲ってきて、ともに闘う方たちが次々とたおれていく。戦場そのものなんです。

瞳は泣きながら、「なぜこんなに医学が進歩していて、これだけ厳しい治療に耐えているのに、人の命が救えないのか。くやしい」と。しかもテレビから聞こえてくるのは、人の命を軽々しく奪う事件や戦争のことで、そのたびに「ゆるせない。なぜこんなに病棟の中と、世界がこんなにちがうのか」と怒り狂っていました。

「今、病気で苦しんでいる人たちが、もっと自由にすごせるような世の中になればいいね」と心底言っていて、そんな生と死のはざまで生まれたのが"究極の液体"「瞳スーパーデラックス」です。「これ絶対つくる!」って。世界中のお年寄りも、赤ちゃんも、どんな人のどんな病気もすぐに完治するような史上最強の治療薬。世の中にそんな薬がないのなら、自分の体の中でつくる、と。

あの子はその願いを大きな画用紙に描き上げ、病室に掲げていました。「医学でだめなら私が助けます」と、涼しい顔で。

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「私にテクニックは必要ないよ、直球で勝負するよ!」

——1年9カ月にわたる闘病中、4回退院されていますね。

最初の退院は12才の春で、中学校の入学にギリギリ間にあう頃でした。 あの子は自分の足で、元気に学校に行きました。そして、みんなと同じことを何事もなくやりました。委員会やクラブ活動、掃除もです。

右の大腿骨をぜんぶ人工関節に置き換える手術をした後も、「早く歩きたい」と翌日からリハビリを開始。肺がんの手術後も、すぐ遠足に参加しました。私たちが暮らした町がぜんぶ見渡せる三池公園という、瞳の大好きな場所です。急な坂があるのですが杖も使わずに自分で歩いて登りました。

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——すべてのことに全力で取り組み、楽しんだのですね。

そんなある日、弁論大会の原稿を書く課題が出たんです。瞳は2年近い闘病生活のすべてを、規定の5分にまとめることができなくて、毎日毎日原稿を消しゴムで消しては丸めて。

しかも勉強もみんなにおくれをとりたくないと、まず学校から帰ったら、自主学習を丁寧にやって、中間テスト、期末テストの試験勉強の後に原稿に取り組むから、寝るのが1時、2時、ときには3時だったり。私は体力の消耗が心配で、「早く寝なさい」と言うんですが、瞳は「どれひとつ、譲れない」と。

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そうするうちに原稿がクラス代表、学年代表、そして学校代表へと選ばれていきました。でも瞳は内容にまだ納得できていなくて、推敲をしながら毎晩毎晩泣いていたんです。書けないから、悔しくて。5分につめこむのは無理がある。それでもあきらめなかったから、よほどの執念でした。

そして出来上がったのが、大会の朝8時。もう学校で手直しできない。テクニックも教えてもらえない。

私は知らなかったんですが、弁論大会では暗記力とジェスチャーと5分以内という規定、すべてをクリアしなきゃいけないんです。会場に着いてみると、各学校の代表が、すごい身ぶり手ぶりで本格的にやっていて。私は瞳にそっと、「みんなすごいよ、大丈夫?」と聞きました。

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すると瞳は、「ママ、私は賞のためにこの原稿を書いたんじゃないよ。私には伝えたいメッセージがあるから、この原稿を書いたんだよ。私にテクニックは必要ないよ、直球で勝負するよ!」と、私をにらみつけました。

そして壇上に登って行くとき、片足を引きずっているんですが、すごく凜々しくて。その姿は、13才に見えませんでした。もう大人の女性でした。

この2年間で、この子はどれほど成長したんだろう。もう私の娘というよりも、遥かに遠く高いところにいるように見えて。それから堂々と、「みなさん」って切り出した内容が、あまりに力強くて。私は、その声を聞いたときに、この子のどこにこんな力強さがあるんだろうと思いました。テクニックが何もなくて、それでも3位をいただきました。

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「ママ負けるな、つよくなれ」

——瞳ちゃんは、思いを伝えることができたんですね。

それから2カ月半ののち、瞳は旅立ちました。私は糸が切れたように、何もできなくなりました。しばらくたった頃、あの子が通っていた中学校から、体育祭の音楽が流れてきて、そのときハッと思い出しました。
瞳が旅立つ2日前に、担任の先生がお見舞いに来られて、「猿渡、もうすぐ体育祭だぞ。参加できるか?」と聞かれたとき、全身麻痺で首も動かない瞳は「間に合わせます。必ず参加します!」と目をキラキラ輝かせて答えました。そのことを思い出したのです。

瞳の約束は母親の私が果たさなきゃ、と思って、急いでその日の体育祭に参加したんです。

ぶっつけ本番で、13才のみんなにまじって、玉入れ合戦や応援合戦を炎天下の砂ぼこりの中で、無我夢中でやりました。気づくと、瞳の気持ちで笑っていたんですよ。うれしくて、楽しくて、青空の下で瞳と一体になって踊っているようで。そのとき、私の全身を瞳の声が駆け抜けたような気がしたんです。

「笑っているママが大好きだよ。ママ負けるな、つよくなれ。私はいつもそばにいるよ」って。

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それで私、「泣いている場合じゃなかった」と気づいたんです。

「私、負けてた。瞳ちゃんが大好きな、笑っているママでがんばるよ」

青空に瞳が溶け込んでいるような感じがして、その青空に約束したんです。本当に私、瞳と一体になったんですよ。あの子は私の中で、これから永遠に生き続けるんだと確信したので、今は生きていたとき以上に身近なんです。

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——瞳スーパーデラックスという薬は実在するのではないか、と私には思えます。

そうあってほしいですね、みんなの心の中に。瞳は、その処方箋をつくってくれたんだな、と思います。

猿渡瞳さん 弁論大会ムービー

2004年7月2日 大牟田文化会館 青少年健全育成弁論大会 田隈中学校代表
※抜粋です。若干ノイズが含まれております。ご了承ください。

取材 2006年5月 福岡にて
2006年7月 大牟田にて