がんのこと

がんの体験談 「生きる」ストーリー 井上怜奈さん

がんの体験談 「生きる」ストーリー 井上怜奈さん

井上怜奈さん(フィギュアスケート選手)
1976年兵庫県生まれ。20才のとき父を肺がんで亡くし、翌年、自分にも肺がんが見つかった井上さん。ジョン・ボールドウィンさんとペアを組み、世界を舞台に活躍する姿は、多くの人を力づけています。

父が、私の「ファン1号」でした。

スケートはいつはじめたのですか。

4才のときです。そのころ小児ぜんそくがあり、お医者さんのすすめで、水泳とスケートをはじめました。水泳は、ビート板を持っているのに沈んでしまうほどダメだったのですが、スケートは鬼ごっこしたり、遊びながら教えてもらったせいか、楽しくつづけられました。

世界のトップスケーターが集まる国際大会で、小さい頃から日本代表として活躍しましたね。

スケートがほんとうに好きでやっていたら結果がついてきました。今思えばそういった大会の価値はあまりわかっていなかったかもしれません。そして18才のとき、リレハンメルの後は、燃えつき症候群というのでしょうか、自分の中でもう満足してしまい、これからはスケート以外のことで大学生活を楽しみたいなとさえ思っていました。

その頃、健康診断で父の肺に影が見つかりました。肺がんだということがわかり、手術を受けました。父が43才のときです。じつは、前の年の健診でも再検査をすすめられていたのですが、私のスケートの試合が重なっていそがしく、忘れてしまっていたようなのです。手術では肺の半分以上を摘出したのですが、転移はなく、そのうち仕事にも復帰しました。まだすべてが前向きで、明るい時期でした。

私は人にすすめられて、春から秋にかけてのオフシーズンにアメリカでの練習をはじめました。それまではスケートと学校が生活のほとんどを占め、掃除洗濯など親がやってくれるのが当たり前と思っていたわけですが、アメリカでは全部自分でしなきゃいけない。初めて親離れができた時期でした。

お父さんの再発の知らせは、アメリカで聞いたのですか。

はい。手術から1年ほどで父の肺がんは再発しました。まだ若いので進行が早く、リンパ節に転移して。帰って会った父は、前よりも小さくなったように感じました。私は日本にもどって、父の看病に専念したいと思いました。スケートは、やりたいときにいつでもできるから、今は父と過ごす時間を大事にしたいと思ったのです。しかし父は自分の病気のことで、私のやりたいことができないということは絶対に避けたいと考えていました。それで何度かケンカにもなりました。

そんなとき、母に「どうかお父さんの希望を聞いてあげて」って言われて、初めて「あ、そうだな」って。残された時間の少ない父親の願いを聞いてあげるのも親孝行のひとつかもしれないと思い、スケートに専念することにしました。
今でも、もうちょっといっしょに過ごしたかったな、と思うことはありますけどね。再発から約1年で、父は亡くなりました。

どんなお父さんでしたか。

ほんとうに、誰に対してもやさしい人でした。そして小さいときから私のスケートをいちばん楽しそうに見ていてくれました。私は父を「ファン1号」と呼んでいたのです。

父が亡くなった後は、何もする気が起こらなくなって。母と2人になり経済的にも大変で、これからどうしようって、ぬけがらのようでした。父と母は、私が大学生になっても手をつないで歩くほどのおしどり夫婦だったんです。そんな母にとっては相当なショックだったと思います。私はお金のことも考えて、母に「スケートはやめるよ」と言いました。でも父は生きている間に「怜奈がやりたいことはできるかぎりやらせてあげてくれ」とリクエストしていたのだそうです。母は「怜奈がやりたいのなら、アメリカでやったほうがいいよ。できるかぎりサポートするから、お互いの道でがんばろう」と言ってくれたのです。

私はアメリカに拠点を移し、土産物屋さんやお寿司屋さんで働いて生活費の足しにしました。スケートの衣装も、全部自分でスパンコールをつけてお金をセーブしたり。母は日本で、塾の講師や保母さんなどいろんな仕事をしながら私を支えてくれました。私を幸せにしようと、いつもがんばりすぎるくらいがんばってくれる。そんな母の存在そのものが、私にとっては大切なんです。

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