再発を少しでも抑えられる治療法と、自分の足で歩ける治療法、どちらをとるか。
私は高校に通いながら、釣りの楽しさを伝える仕事をしているプロのアングラー(釣り師)です。さらに、モデル業もしながら毎日を楽しく過ごしています。海と魚が大好きで、3歳のときから釣りをしています。海も魚も毎日様子が変わるので、どうしたらうまく釣れるか探究するのも楽しいですし、何より自分の釣った魚を食べるのは最高です。作るのは料理上手な母で、私は食べる専門なんですが(笑)。
今はこんなふうに楽しく生きていますが、5年前にはがんと診断され、300日もの入院生活を送っていました。
「あれ、なんだか痛みがある」
足の異変に気付いたのは13歳のときです。体が成長する時期だったので、最初は成長痛だろうとのんきに構えていたんですが、痛みはずっと消えず、体調が悪くなる日が続きました。地元の病院で診てもらいましたが、原因が分からず、鎮痛剤を処方されただけ。症状も改善しないため、いくつか病院を変えた後、隣町の少し大きな病院で診察を受けると、炎症反応が強く出ていることが分かりました。すぐにMRIを撮り、その翌日には自宅から250km離れた旭川医科大学病院に救急車で運ばれました。人口5,000人未満という北海道の小さな町で暮らしていたので、一番近くの大きな病院がそれほど遠かったんです。
診断の結果、「ユーイング肉腫」という骨に発生するがんの一種だと分かりました。私には病名は伏せられていましたが、周りの反応で、なんとなく「大きな病気なんだろうな」と思いました。そのときは特に怖くなかったんですが、先生から「骨盤を半分切除し、人工関節を作る手術になる」「手術後は車いす生活になるだろう」と説明されたとき、ものすごくショックを受けました。私の夢は、大好きな先輩のように、釣りがうまくて、優しくて、みんなに好かれるアイドルのような、プロのアングラーになることと、モデルになることの二刀流を実現すること。手術をしたら、もうその夢はかなえられなくなるんじゃないかと絶望しました。
「夢を全て失ってまで生きるのはつらい……」
先生からは、手術を受けた場合の再発率は12%、陽子線治療の場合は再発率13%だという説明を受けました。家族からは1%でも再発を抑えられる可能性が高い手術を勧められましたが、私はどうしても夢を諦めきれず、手術は受けたくなかった。「生きてさえいればなんとかなる」という家族と、「夢を諦めたら生きている意味なんかない」という私とで何度もぶつかりました。最後は少しでも長く生きてほしい、という家族の説得に折れる形で、手術することを選びました。
母が考えてくれた楽しいイベントに救われた。
手術の前に、抗がん剤治療を受けたのですが、幸いなことに、その段階で腫瘍が予想以上に小さくなったため、手術で骨盤を切除する範囲が狭まり、手術後も自分の足で歩ける可能性が出てきました。
「もう一度釣りができるかもしれない」と希望が見えて、手術もがんばろうと前向きな気持ちになれたんです。でも、抗がん剤治療中は副作用が本当につらかったです。大量の口内炎ができて、痛くて食事がのどを通りません。病院食がおいしくないと感じることも多かったですし、髪の毛が抜けてしまうことも…。
そんなとき、食事の面ですごく助けてくれたのが、母でした。「病院食はもう嫌だ、お母さんの手料理が食べたい」という私のわがままに応えて、母は病院内の電子レンジや、病院のすぐ隣にあるファミリーハウス[*1]のキッチンを使って料理を作ってくれました。私は母の料理が世界一おいしいと思っているので、副作用がつらくても、母の料理なら食べられると思ったんです。母は口内炎でも食べやすい、刺激の少ないおいしい料理を工夫して作ってくれて、入院中に食べられたことがすごくうれしかったです。
[*1]ファミリーハウス……入院している患者さんのご家族が使用できる施設。
母は料理の他にも、私が前を向いて少しでも明るい気持ちになれるように、いろいろとイベントを仕掛けてくれました。まずは母の発案で、治療中に髪が抜けてしまうことを想定して、抗がん剤の投与が始まる前に、13年間伸ばしてきたロングヘアをばっさりと切り、ヘアドネーションの団体に寄付をしました。「私の髪が誰かの役に立つんだ」そう思うと、少しは気持ちも晴れました。
それから、母のアイデアで、大好きな魚について学べる検定試験を受けたこともあります。入院中に資料を取り寄せ、病床で勉強したんです。ちょうど全国試験の日。私は手術が終わった後に取り切れなかった腫瘍を小さくするため、陽子線治療を受けに旭川医科大学病院から札幌の北海道大学病院に転院していました。札幌は全国試験の会場の一つだったので、タイミングよく受検することができました。試験日に体調が良かったことも幸いし、試験には無事合格。本当にラッキーだったと思います。
今になって振り返ると、私が前を向けるように、いつも目の前の目標をつくってチャレンジさせてくれたことは本当にありがたかったです。
でも正直言うと、入院中は母とよくぶつかりました。当時、私は思春期の真っ最中。「私の気持ちなんて分からないよね」と、母に当たってしまったこともありました。
そのとき、母はこう言っていました。
「分からないけれど、『分かる』と言いたいのよ。『分かる』と言って、あなたの気持ちに寄り添いたいの」
私がぶつけた言葉は母を傷付けたと思います。母が陰で泣いていることも知っていました。だって目が赤かったですから。治療のつらさと反抗期が重なって、時には心無い言葉をぶつけてしまう私に、精一杯寄り添ってくれた母には、感謝の気持ちしかありません。
忘れられないメッセージ。私にはたくさんの宝物がある。
家族だけではなく、私は本当にたくさんの人に支えられてきたと思います。
病気が分かると私はすぐに遠く離れた病院に入院し、小さなときから仲良くしてきた友達に何のあいさつもできず転校してしまいました。ですが、担任の先生が私のことをみんなに伝えてくれたことで、たくさんの手紙が病院に届いたんです。何も言わずにいなくなってしまったのに、同級生たちからもらった力強い応援の言葉にはすごく勇気付けられました。みんながくれた手紙は、今でも大事に取ってあります。
私は今、一通りの治療を終えて経過観察中です。手術後5年間は定期的に検査を受ける必要があるので、高校生になったと同時に母と北海道から横浜に引っ越しました。以前住んでいた北海道の町は、検査を受けられる病院から250kmも離れていていましたが、今の家は病院から近く、月に一度の通院も、3か月に一度の大きな検査もすごく楽になりました。
夢があるからこそ、生きたいと思う。
私はプロのアングラーとモデルになりたいという夢を強く持っていて、たとえがんになっても夢を諦めることができませんでした。でも、その目標に向かっていることで、自然と「生きたい、生きよう」と思う力が湧いてきました。
手術の当日、私は母に頼んで、有名釣り具ブランドであるDAIWAが10年に一度募集する「スーパーフレッシュアングラー(SFA)」に応募してもらいました。応募したからには絶対に合格したい。そのために、手術後のリハビリにも全力を尽くしました。なんとか歩けるようになった私は1次〜3次審査を通過し、晴れて念願のSFAに選ばれました。
今思うと、ここまでがんばることができたのは、夢があったからだと思います。別に最初から大きな夢でなくてもいいんです。最初の目標がかなえられたら、次、また次と一歩一歩進んでいけます。夢があれば目標ができ、目標があればそれに向かってがんばれる。それが生きる力になると実感しています。
そして、夢を諦めないでいられたのは、家族、友達、釣り仲間など、たくさんの人たちが、夢に向かう私のことを信じて支えてくれたからだと思います。今、病気と闘っている人たちに、夢をもつことと、孤独を感じることがあっても、周りには実は支えてくれる人がたくさんいるんだということを伝えていきたいです。
病気を経験したことで、もう一つやりたいことができました。ボランティア活動です。札幌を拠点とするプロ野球チームのファンの友人が私の病気をきっかけに、障がい者や病気で苦しむ子どもたちを支援する球団公式後援会を立ち上げました。会の通称は「にじの会」。私は広報担当理事です。今はコロナ禍でなかなか活動できませんが、自由に動けるようになったら直接そうした子どもたちに会いにいって、私が経験したことを伝えることで、少しでも力になりたいと思います。
最後に、保険の大切さも伝えていきたいです。病気になるとお金が掛かります。大きな病気ならなおさらです。私の場合、何度も転院し、セカンドオピニオンも受けましたし、引っ越しもしました。10か月に及んだ私の入院期間中、母は仕事を辞めて私に付き添ってくれました。それを全部貯金で賄うのは大変です。いろいろと選択肢を持てたのは保険のおかげです。保険は夢に向かってがんばる日々の治療や生活を支えてくれるお守りみたいなもの。私の活動を通じて、保険になじみのない若い人たちにも、保険の大切さを伝えていきたいと思います。
2022年6月現在の情報を元に作成
※がんを経験された個人の方のお話をもとに構成しており、治療等の条件はすべての方に当てはまるわけではありません。