治療の長さにうんざりして、相手をいたわる余裕がなかった

がんが発覚した時、松さんは30歳の誕生日目前。交際4年目になる、7歳年上の彼がいました。

「その頃は、妄信的に結婚を意識していてプロポーズを待っているような状態でした。そんなときに、乳がんに罹患したんです。もちろん故意的になったわけではありませんが、“健康体でない”というだけでものすごくみじめな気持ちになったことを覚えています。彼は、『なってしまったものは治すしかない、俺たちの関係は変わらない』と言ってくれました。」

病院への送迎をしてくれたり、抗がん剤で家にこもることを想定して気晴らしの為にゲーム機をプレゼントしてくれたりと、闘病中、彼は懸命に支えてくれたといいます。抗がん剤治療の前に家庭用バリカンで松さんの髪の毛を刈り、その後、彼もそのバリカンで髪を刈ったこともあったとか。手術前後は寝袋持参でなかば強引に病室に泊まってくれるほどでした。

「彼には本当に良くしてもらいました。それでも退院して放射線治療に入ると、些細なことで毎日、喧嘩をするようになってしまって。私も彼も治療の長さに心底うんざりして、相手をいたわる余裕がなかったのだと思います」

街中を歩く松さん

その先の人生を夢見ることは悪いこととは思わない

手術から丸1年が経ち一度婚約に至るものの、次第に2人の間に距離を感じるようになり、双方の心変わりから、やがて松さんのほうから関係の解消を申し出ます。

「彼の存在は大きかったです。一緒に過ごした6年半、いろいろあったけれど幸せだったし学びました。もう会うことはありませんが、それは嘘じゃありません」

彼との関係を解消して以来、結婚や出産のことについては、できるだけ考えないようにしていた、と松さんは言います。

「文章を書き始めたり、客室乗務員という新しい仕事を始めたりと、生活のあわただしさで、考えたくないことを考えずにいられたというのもあります」

松さんは、治療費や性生活を含めた恋愛事情などを赤裸々に綴った著作『彼女失格 恋してるだとか、ガンだとか』に続き、2017年11月に2作目の著書『女子と乳がん』を上梓します。これは、松さん自身の「その後」と、松さんと同じく若年性乳がんに罹患した3人の女性、若年性乳がんに関わった1人の男性の、恋愛、結婚、離婚などについてまとめた一冊です。

「抗がん剤治療前に卵子を凍結した人もいれば、手術、抗がん剤、放射線治療、ホルモン治療を経て、自然妊娠をした人も数多くいます。同じ若年性乳がんでも、妊娠・出産事情は本当にそれぞれです。けれど、多くの女性が望み、考えるであろう結婚や出産を、がんになった途端に『生きられているだけでありがたく思え』、『それ以上を望むのは贅沢だ』と、年上の同病の方からも言われることの多さに驚きました。心構えや価値観は人に押し付けられることではないし、生きるために治療を受けているのだから、その先の人生を夢見ることが悪いことだとは私は思いません」

また、松さんは同書で、2015年に、「出会って3回目でプロポーズしてくれた世にも奇特な男性と結婚した」ことを明かしています。

「元上司の主催した新年会で出会った直後に2人でランチをして以来、私は大阪、彼は東京で生活するなかで、LINEでのやりとりを中心に時々電話で話すようになりました。今思えば、入籍するまで10回程度しか会っていないと思います」

笑顔で語る松さん

百万の言葉を尽くしても一の行動にはかなわない

松さんより2歳年下の彼は、離婚して数ヶ月。松さんも彼も当時はまだ、新しい恋愛のことは意識していなかったと言います。

「当時私は客室乗務員で関西暮らし。ある日、彼から神戸に出張に行くと連絡があり、食事をすることにしました。すると彼が「そのとき、話したいこともあるんで」と言うんです。これまでのやりとりから、私のことを悪いふうには思っていないはず。お付き合いに発展していくような話になるのかもしれない、と想像しましたが、まだがんの経験を言えていない私は、伝えた後のことが想像できず不安を感じていました。

しかし、そんな彼の話は、『実は本(『彼女失格 恋してるだとか、ガンだとか』)、読んじゃったんです』ということでした。がんのことも本のことも上手く隠せていたつもりでいたので驚いてうろたえていたら、「苛烈な経験をあんな風に書けるなんてすごい、松さんのこと尊敬するよ」と言うんです。面喰っているとさらに『いろいろ考えたんですけど、結婚しましょう』。2人で会ったのは、この時が2回目。今まで出会ったどの男性にも似ていない彼の言動と行動に心からびっくりしました。ただ、百万の言葉を尽くしても一の行動にはかないません。気持ちを行動で示そうとしてくれた彼をわたしも尊敬します」

松さん自身は、彼のどんなところに魅かれたのでしょうか。

「彼は『がんの経験を、同じ病気の人に役立つように伝えようとした姿勢や、読む人が想像しやすいよう、読みやすいようにユーモアをもって伝える筆致を選んだ私を好きになった』、と言ってくれています。それは、痛みやつらさは数値化できず主観になりがちだからこそ、どうしたらがんというテーマを身近に感じてもらえるかを考えた結果、体験を文章にする上で私がいちばんこだわった部分でした。近い視点でモノを見ることができることは、結婚を決める大きな要因になりました」

自分の体のことをきちんと知らないことが怖いとわかった

結婚はふたりだけの問題ではありません。彼のお母様がこの結婚に戸惑いを感じるのは当然のことだと思っていました、と松さんは言います。

「私はがんの経験があるし、夫は離婚して1年未満。しかも私たち、会って3回目で結婚を決めています。お母様が複雑だったことは容易に想像がつきます。初めてお会いした食事の席で彼が中座し、2人きりになったときに、お母様から、『結婚ということを考えて今日ここにいらしたんですよね』と聞かれました。これは自分の言葉で話さないといけないなと思い、『はい。がんを経験していることを含め驚かれたと思いますが、治療時も並行しながら社会生活を続けられたことが人生の自信になっています。彼を頼るだけではなく、お互いに支えあえると思います』とがんの経験があるからこそやっていけるという想いを伝えました。お母様は、『2人の大人が考えて決めたことだろうから、よろしくね』と言ってくださいました」

結婚したとき、松さんは38歳、彼は36歳。妊娠・出産についてはどのように考えていたのでしょうか。

「結婚する以上、出産は意識せざるを得ません。がんに罹患したときの最初の病院の先生から、『抗がん剤を使用することで、80パーセント不妊になる』と断言されましたが、転院した病院では、『そんなデータはない』と言われました。当時はガイドラインもなく、臨床現場でも見解が統一されていなかったのです。そのため治療で使った薬の影響が体にどう残り、影響しているかわからず、自分の妊よう性(妊娠する力)に関しては、懐疑的でした。

そこで、卵子保有率がわかるAMH検査を受けたところ、『一般的な40歳の女性の持つ卵子の半分以下』という結果が出ました。ただ、医師も言っていましたが、この検査でわかるのはあくまでも卵子の数。質まではわかりません。また、抗がん剤の影響についても、関係ないとは言い切れないが因果関係を示すエビデンスもない、とのことでした。

彼には検査結果をそのまま伝えたのですが、プロポーズしてくれたときと変わらず子どもが欲しくて結婚したのではないから、と改めて言ってくれました。私もこの結果を知ることで、かえって気持ちが落ち着きました。一番怖いことは自分の体のことを知らない、分からないということですから」

ウエディングドレス姿で笑う松さん

がんの治療で気づいた、みんなと同じでなくていい。

結婚生活はもうすぐ3年。結婚当初は東京と大阪の別居婚でしたが、現在、松さんは航空会社を退職。東京で一緒に生活しています。

「人の縁って不思議ですね。かつて結婚は社会に望まれている姿で、しなくちゃいけないものだと思い込んでいました。そして、その既定路線に乗れない自分に劣等感を抱いていました。ただ、今は、恋愛、結婚、出産という人生における大多数の波に乗ることができなくても、それは決して不幸なことではないと思っています。

がんの治療は自分自身が試されます。たくさんあるがんの治療法の選択、仕事の選択、そのなかでの対人関係と、取捨選択の繰り返しです。その経験を経て思うのは、みんなと同じでなくてもいいということです。結婚もそうで、何歳までに結婚しないといけない、何年お付き合いしたから結婚するのが妥当、ということはないのではないか、って。夫のお母様に、自分の意思で結婚したいと伝えたとき──、それが私にとっての結婚適齢期だったのだと思います」

取材・文/長谷川あや 撮影/柏原力

2018年5月現在の情報を元に作成

※がんを経験された個人の方のエッセイをもとに構成しており、治療等の条件はすべての方に当てはまるわけではありません。