ふるさとでの結婚式の半年前に、
脳腫瘍で倒れました。

僕のふるさと、高知県香美市土佐山田町平山という地域は少子高齢化が進んでいます。地域を支える担い手である若い世代がどんどん外へ出ていく。僕も高校卒業後はふるさとを離れ、役者の勉強をしながら、大阪や東京に住んだ時期もありました。

24歳のとき、母校の小学校が廃校になり、宿泊施設になると聞きました。それから1カ月後には帰ってきていました。都会は都会で楽しいけれど、毎日景色が変わっていく。それに対し、ふるさとはいい意味で景色が変わらない。帰省をするたびに、改めてこの環境は素晴らしいなと感じていたのです。

同じく県外へ出ていた地元の幼馴染だった妻と一緒にふるさとへ帰り、地域で進める宿泊施設のオープンの準備に加わりました。同時に結婚式の準備も始めていましたが、ある日妻が帰宅したら、僕が意識を失って庭で倒れていたそうです。結婚式を半年後に控えた25歳。自覚症状はなく、突然のことでした。

サードオピニオンを受けた病院で
手術を受けました。

救急車で病院へ。お医者さまからは「検査しないとわからないが、おそらく脳に腫瘍があるのでは」と言われました。開頭手術になる可能性や、もし腫瘍であれば生存率にも関係してくるとの説明もありました。

検査だけで1,2カ月入院しました。セカンドオピニオン、サードオピニオンも受けました。最初はお医者さまの診断に疑問を持つのは悪いような気もしたのですが、大学病院の先生の話も聞きたいと言ってみたら、「いろいろな先生に聞いてみてください」とのことで快く紹介状を書いてくださいました。

笑顔で話す門田隆稔さん

枕の下においてあった、
母からの手紙。

大学病院の先生の診断も、主治医と同じ。家族と相談し、大学病院で手術を受けることにしました。気合を入れたら治る、というものでもないので、すべて先生にお任せしよう、とリラックスした感じでいました。

ただ、家族は気が気じゃなかったと思います。手術の3日前から検査など準備があるので母が世話をしてくれました。手術の前日、シャワーを浴びて病室に戻ったら、面会時間も終わり、母もすでに帰宅後だったのですが、枕の下に母からの手紙がありました。

僕は喘息をもっていたので、先生からは手術中に喘息の発作が起きた場合のリスクの説明もありました。母からの手紙には「そのときは向こうへ行ってはだめですよ、必ず帰ってきなさい」と。また、僕は幼いころ病弱だったことも自分の責任として「元気な身体に産んであげられなくてごめんね」と書いてありました。

好きで一人暮らしもしてきて生活習慣も関係しているだろうし、母のせいで脳腫瘍になったわけではない、と思ったことが印象に残っています。手術は11時間かかりましたが、無事終わり、1カ月もしないうちに退院できました。

地域のみんなに手伝ってもらった
手づくりの結婚式。

1月に退院して、3月に結婚式。地域のおばちゃん、おじちゃんが妻のために人力車を用意し、小学校の玄関までやってきて人前式をする、という演出をしてくれました。

実は倒れた日に、両親が妻に「後遺症が残るかもしれないので、婚約破棄してもらってもかまいません」と伝えたのですが、妻は「そんなことは一切考えていません」と言ってくれたそうです。

腫瘍の位置は大脳左側の運動野に近いところ。手術のときに他の場所に触れてしまったら、日常生活に支障をきたす可能性もありましたが、手術は成功。完治したと、すっかり安心しきっていました。

若くて独身で、保険なんか入っていなかった。

治療費は両親がしばらくサポートしてくれて、本当に感謝しています。保険の大切さは、自分が病気になってから気づきました。脳の手術なので費用も大きく、手術ってそんなにかかるんだと驚きました。高額療養費の申請もしました。

宿泊施設の仕事だけでは食べていけないので、最初の頃は、平日は地元の飲食店で働く兼業生活でした。

笑顔で話す門田隆稔さん

8年後の再発。
手術後、抗がん剤と放射線の治療も。

術後も定期的な検査は続けていました。3年が過ぎ、車の運転の許可もおりました。日常生活に支障もなくなった2015年には「ほっと平山」の施設長に就任しました。ふるさとをどうにかしなければというプレッシャーを感じつつ、これからどうしていこうかというワクワクした気持ちもありました。

忙しい日々が始まった翌年、再び症状がでました。3人目の子どもが生まれた2週間後のことでした。

クライアントとの打ち合わせの途中、突然言葉が出なくなりました。最初の手術のあと、てんかん発作を経験し、それと同じ症状だったのですぐに病院に連れて行ってもらいました。診察を待っているとき、下からぶわーっと血液が上がってくる感覚があり、意識を失いました。

最初の手術で取り切れていなかったものが大きくなったのだろう、ということでした。化学療法と手術と2つの選択肢が示され、家族の希望もあり、再手術を受けることにしました。

手術後の病理検査の結果は、限りなくⅡに近いステージⅢ。悪性との診断で、抗がん剤と放射線の治療も受けることになりました。抗がん剤は2年くらい続けました。毎月薬代で6~8万円かかりました。それに加えて3カ月に1回はMRI検査があるので合わせると初任給位の金額がかかってきました。

1日3000回の「ありがとう」。

再発はズーンときました。独身だった1回目とは抱えているものの重さが違いました。子どもが3人。施設長としても対外的にいろいろな活動をしていました。つながりを持っている方々に迷惑をかけないように知らせておかなければとSNSで公表したところ、予期せぬ声援をいただきました。

送られてきたお見舞い動画では、先輩たちが一堂に会して「がんばれよ、帰ってこいよ」と歌ってくれていました。みなさんの存在は家族にとっても心強かったようで、すごく嬉しかったです。絶対帰らなきゃいけないな、と思いました。

すぐに高知まで飛んできてくれた人もいました。1日3000回「ありがとう」というと奇跡が起こる、と教わり実践したら、術後もずいぶん楽な気持ちで過ごせました。

病気のおかげで人生ポジティブに。

病気というのは自分の一部なので、ネガティブに闘うのではなく、ポジティブに受け入れ、自分の細胞と向きあうことを大切にしています。僕はもともと、ネガティブな方だったのですが、病気によってポジティブにならざるを得なかった。病気のおかげで人生ポジティブになれた、とも思っています。

3人の子どもたちは、
それぞれが役割を果たしてくれました。

手術の前、長女には「ママを助けてあげて」と伝えました。第二子の長男には「家族を守るのはおまえだぞ」と。生まれたばかりの次女はよく笑う子。重くなりがちな家の中の空気をはねのけてくれました。手術前に妻からもらった手紙は今でもスマホケースに入れています。普段は言葉にしないような妻の本当の気持ちを知ることができたのも、病気のおかげです。

遠くを見つめる門田隆稔さん

育っている環境を誇りに思えるよう、
親がちゃんと伝えているか。

少子高齢化や過疎化は世界中の先進国の課題。みんなが同じ課題を抱えているのに、答えを出せていません。僕も今やっていることが「最適解」か常に考えていますが、まずは「伝えること」かなと思っています。「将来、県外へ行きなさい」と言われて育つ人が多い中、自分は「ここはいいところ」と親から言われて育ちました。

大人の言葉は、大事。子どもは心が柔らかいから言われたとおりになります。大人がふるさとの良さを伝えていけば、子どもはふるさとに帰ってきます。帰ってきた人が生活していけるよう雇用を生み、生活できるよ、ということを発信していきたい。それを「楽しく」やりたいです。楽しく前向きに、おもしろそうなことをやれば、田舎に人は集まってくるはずだから。

奥様からのメッセージ

再発したときに、本当にたくさんの方から声をかけていただいて、ありがたかったです。私たち家族の知らないところで、主人がこんなにたくさんの方々と人間関係を築いていたと知り感動しました。主人は一言でいうと「大きいひと」。私の夢は「夫婦、共白髪。ともに白髪になるまで一緒に生きていくこと」です。

2019年10月現在の情報を元に作成

※がんを経験された個人の方のお話をもとに構成しており、治療等の条件はすべての方に当てはまるわけではありません。