大学3年のとき、
1週間高熱が続きました。

東京の大学で部活の競技ダンスに打ち込んでいた時期でした。高熱が1週間続くことが12月に2回ありました。内科に行って検査もしたけれど、異常なし。ウイルス感染でしょう、ということでした。

年末に帰省しましたが、食欲もなく、体重も落ちていました。1月には膀胱炎になり病院を受診。受診した日の翌朝、起きたときには携帯に病院からの着信がたくさん入っていました。かけ直してみると「血液の病気の可能性があります。検査入院のつもりですぐに来てください」と言われました。

土曜日で部活があったので「月曜ではダメですか?」と聞いたのですが、その日に来るようにとのこと。血液検査をしたら、血小板の数値が昨日よりも減っていました。「もしかしたらすぐ輸血になるかもしれない」と看護師さんに言われました。

実際はすぐには輸血せず、1週間後、静岡の実家近くの病院に転院したあと、初めて輸血しました。最初に診てもらった東京の病院の先生から、静岡で骨髄移植ができる病院を2カ所ご紹介いただき、実家から近かった方を選びました。

よくわからないまま、
抗がん剤治療がスタートしました。

診断結果は、急性骨髄性白血病。どんな治療になるのか想像もつかず、実感が湧きませんでした。白血病の5年生存率を知ったのは、抗がん剤での治療が始まったあとでした。吐き気などの副作用もあるし、始まってから「大変じゃん!」という感じでした。でも半年間の抗がん剤が終わったら、大学に戻れるのかも、と最初は思っていました。

7月に退院したときには、体重も少し減り、髪の毛も抜けていました。当初は骨髄移植をしなくても大丈夫かもという話もありましたが、詳しい検査の結果、私の白血病は骨髄移植をした方がいいことが判明しました。骨髄移植を待つ期間は複雑な気持ちでした。他の人は早々に移植が決まって移植コーディネーターさんが来るのに、自分のところにはまだ来ないのが気になったり。

その後も、ドナーが決まった話は何カ月もこなくて、結局最後まで型がぴったりで骨髄提供に同意してくれる人は見つかりませんでした。お医者さまからは「完璧に型が合うドナーがいなければ、リスクを負ってまで移植しない方がよい」と言われました。ドナーが見つからなかったショックの反面、とりあえず怖い治療をしなくてすんでよかった、と思う自分もいました。

笑顔で話す石井希さん

治ったと思っていたのに、4カ月後に白血病が再発。

最初の退院後も月1回の検査を続けていましたが、4カ月目の検診で再発がわかりました。このまま治ってくれたらいいな、抗がん剤だけで終われたらラッキーだなと思っていたので、またあの治療を受けるのかと思うと辛かったです。この半年の治療はなんだったんだろう、というむなしい気持ちにもなりました。初回の時はわからないままスタートしたけれど、再発のときは治療の感じもわかっていたので、やりたくなさすぎて、検査中も涙が出たりしました。

再発でしたので、今度は型が完璧に一致しなくても骨髄移植を受けることになりました。大学に戻れないかも、これからどうなっちゃうんだろう、という気持ちでした。競技ダンスでペアを組んでいた相手には、病気がわかったときにペア解消を申し出ていました。もう一緒には踊れないけれど、部活には戻りたいと思っていました。

骨髄移植。
ドナーからいのちを受け取り、
生まれ変わった感覚です。

それでも、最後にドナーが見つかったときには、本当にありがたかったです。

まずは抗がん剤と放射線で、自分のがん細胞を壊しました。「今までで一番強い抗がん剤を入れます」と言われたのですが、副作用のコントロールがうまくいったのか、意外と大丈夫でした。放射線は初めてだったので、最初は少し辛かったです。当たっている部分が日焼けしているような感じで喉が痛くなり、疲れも出ました。少し吐き気もありました。

移植は、ドナーの骨髄液500mlを2パック、ゆっくり4時間かけて注入しました。ベッドに横たわり、注入中の骨髄液のパックを見上げると不思議な感覚に包まれました。言葉にするのが難しいのですが、ありがたいという気持ちとともに、これだけの量を採るのだからドナーの方は大変だったんだろうなと感じていました。

ドナーは30代の女性だということしか知りません。私はもともとA型だったのですが、血液型がO型に変わりました。骨髄移植後、血液データを見るたびに、徐々に血液型が変わっていきました。日にちが経過するにつれ、「ドナーさんの血が流れている」「いのちをもらったんだな」「生まれ変わったんだな」と感覚も変化していきました。

そばで両親が支えてくれました。

若かったし、がん保険には入っていませんでした。治療費は親が出してくれました。セカンドオピニオンを受けに東京の病院にも行ってくれました。一時退院するたびに父が送迎してくれました。「迷惑かけてごめんね」と言うと、「そんなの気にしなくていいんだよ」と毎回言ってくれました。

入院中は病室で母に話を聞いてもらうだけで、少し気持ちが軽くなりました。私の病院は二人部屋か個室でしたが、やはり個室の方が過ごしやすかったです。隣りの人の話す声や音って、けっこう気になるので。

笑顔で話す石井希さん

大学へ復学。
初対面の子にも病気の話をしました。

退院したあとも病院通いは続きました。免疫抑制剤で免疫が下がっているため、蕁麻疹や発熱などの症状が出て3日に1回は病院へ。薬の調整をしながら療養生活を送りました。しばらくして、体調がよくなったタイミングでリハビリも兼ねて車の教習所に通いました。

同級生から遅れること2年。4年生として大学に復学しました。私が通っていた大学には、病気を経験したり、やむを得ない事情で退学した学生が利用できる一時退学・再入学の制度がありました。同級生はすでに卒業したあと。知らない子ばかりで友達できるかな?と少し不安でした。でも、初対面の子にも「これウィッグだから。毎日髪の毛の長さが変わるかもしれないけど、びっくりしないでね!」と話したら、「それウィッグだったの?全然わからない。ちょっと触らせて」という感じに話がはずみました。

隠して人から気をつかわれるのが嫌だったんです。病気のこともふつうに話したら、みんなが「え、それってどういうこと?」という感じで興味をもってくれました。「触れちゃいけないこと」ではなく、どんどんみんな聞いてくれました。自分の経験を話すことに意味があるかも、と思ったのはそのときの経験からです。

病気のことやドナー登録のこと。若い女の子の身の回りではなかなか知る機会がないけれど、「知らないでいいや」ではないと思うんです。大学生のドナー登録のために自分にできることがあると思い、大学で講演をしました。卒論のテーマも「日本の骨髄移植の問題点と解決策―大学生のドナー登録のために出来ること―」としました。

骨髄バンクの「ユースアンバサダー第1号」として。

骨髄バンクでは若い人の登録が減っていることが課題です。骨髄提供のドナーとして選ばれるのは、健康面からも20代30代の人が多いのですが、現状では40代の登録者が多い状況です。また、ドナー登録の説明員さんの年齢が上がっていることも課題なので、若い人たちと同世代の人が発信することに価値があると思っています。

骨髄バンク推進全国大会で発表する石井希さん

楽に、ではなく、楽しく。

大学復学後に思ったのは、せっかく戻れたんだからちゃんと勉強をがんばんなきゃ、ということです。病気を経験する前は、部活に没頭しすぎて授業にあまり出ていなかったので、卒業に必要な単位もまだたくさん残っていました。静岡の自宅からは、新幹線通学。無事卒業できて、教授から「最後までがんばったね」と言ってもらえました。充実した一年になったと思います。

楽なことだけをやるのが楽しいのではない、と知りました。目標をもってがんばる楽しさに出会いました。競技ダンスの部活は辞めてしまったけれど、競技会の映像も必ず見ていました。後輩からアドバイスを求められて嬉しかったこともあります。

せっかくもらった「いのち」。後悔しないように生きたい。

大学に通う。ご飯をおいしく食べる。寝返りをうつ。健康な人にとってはなにげないことですが、できない人もいることに気づきました。世の中には、いろいろな状況の人がいること。病気にならなかったら、気づけなかったと思います。

もらった「いのち」。あれもやっておけばよかった、と後悔しないように「思ったことは、やる。いつ再発するかわからないけれど、やれ」って、そういう気持ちで生きています。20代でこういう経験をした自分だからできる活動を、これからも続けたいです。いのちのことって普段は考えないけれど、「いのちって大切だよね」と考えるきっかけになるといいな。

2019年10月現在の情報を元に作成  撮影協力:清泉女子大学

※がんを経験された個人の方のお話をもとに構成しており、治療等の条件はすべての方に当てはまるわけではありません。