首の腫れを病院に相談したのが、小児がん発見のきっかけ。
がんに罹患したショックより、病名がわかってホッとした。

小児がんと告知されたのは、中学3年生の夏です。よくいる活発な中学生で、ソフトテニス部で部長をしていました。ただ春頃から首に痛みや腫れの症状があって。それで病院に行ったのが、がん発見のきっかけになりました。病院を転々としたのですが「大きな病院なのに、なんでわからないんだろう…」と思っていましたね。小児がんとわかったのは、4つめの病院で、首の腫れに気が付いてから3〜4か月が経っていました。

告知の2週間前頃には症状が悪化し、首の腫れも大きくなり、寝違えのような痛みが常にある状態でした。薬も出ず、症状も改善されなくて、モヤモヤ、イライラしていました。でも、大きな病気だとは思っていなかったんですよね。私の場合は、鼻咽頭がん・ステージ3でリンパ節転移もあるとのことでしたが、理解していなかったからか、がんと告知されましたが、ショックはなくて。

ドラマのような違う世界のイメージで、自分ごとと思っていなかったんです。むしろ、病名がわかり、治療に移れることにホッとしたぐらいです。「がん=死」の意識もなくて、友だちと会えないことや学校に行けないことの方が不安でした。

坪内朱音さん

坪内朱音さん

小児がんと診断される子どもは
1年間で何人いるでしょう?

約2,000人約2,000人

国立がん研究センターがん情報サービス「がん統計」(全国がん登録)をもとにアフラック作成

世話をしてくれた母、家計を支えた父。
就職前で大変なのに、小児がんの私を気遣ってくれた姉には「申し訳ない」。

当時、会社員の父、パートの母、3つ上で高校3年生だった姉と家族4人で埼玉県で暮らしていました。

病院には母が同行してくれました。「なんだろうね」と、告知前は母も不思議がっていたと思います。ただ3つめの病院で、小児がんの可能性を母だけは告げられたようです。当然、心配だったと思いますが、それでも、いつもどおりの明るい様子で心配なそぶりを私には見せませんでした。

父は、寡黙な人です。パパっ子で仲はよかったのですが、思春期の私には遠慮もしていたと思います。心配も口にしませんでした。

姉とも仲はよかったです。真面目で考え込むタイプで、私が入院したときも驚いていました。元気が取り柄の妹が小児がんになって、ショックだったんだと思います。就職予定で大変な時期なのに、私が命にかかわる病気になって。状況を理解はしつつも、1人で抱え込んでいたのかなと思います。気を遣ってくれているのも感じていたので、「申し訳ない」と思っていました。

がん治療そのものより、副作用の方がつらかった。
小児がんには晩期合併症のリスクもある。

小児がんの告知より、つらかったのは治療の副作用の方かもしれません。吐き気がひどく、当時は効果の高い制吐剤もなく、寝返りを打つ度に吐いていました。抗がん剤の副作用で1か月ほど起き上がれず、記憶がほぼない時期もあります。放射線治療の副作用で、味覚障害も起こりました。関節痛もあり、その痛みを紛らわすために母に叩いてもらいましたね。

それでも、抗がん剤は1週間だけと決まっていたので「耐えれば治る」と思えました。がんも「治る」と信じていた。だから耐えられたんだと思います。

むしろ、晩期合併症の方が大変だったかもしれません。最初にした抗がん剤治療が原因で、1クール目で腫瘍崩壊症候群となり、急性腎不全になったため、放射線治療に切り替えました。入院中は人工透析を一定期間行い、一時は少し回復したのですが、完全にはよくならず慢性腎不全になってしまって。そのため、2017年から5年間、1日の休みもなく、寝ている間に7〜8時間の腹膜透析をすることになりました。

さらに、抗がん剤の副作用で難聴にもなり、治療中一時期は、筆談しかできないくらいの耳鳴りがありました。慣れてきて軽度といえるようにはなったのですが、今も耳鳴りや難聴は残っていて苦労もあります。

がんは治療できても晩期合併症のリスクがある。つらさや悩みは今も常にあります。

国の制度で小児がんの治療費の負担は軽くはなる。
しかし、他の出費や体の負担が積み重なった。

治療費などは、父が工面してくれました。アフラックの保険に入っていて助かったと言っていました。国の小児慢性特定疾病医療費助成制度で治療費の負担は軽くなっても、交通費や宿泊費など他のお金もかかるので。給付金が出るまでは、貯金を切り崩していたそうです。

入院中の世話をしてくれたのは、母です。パートを辞めて、毎日、自宅から病院に面会に来てくれました。電車とバスを乗り継いで、1時間半かかる道のりです。月に約10万円の出費だったと聞いています。パートによる年100万程度の収入がなくなっていたので、家計は苦しかったと思います。

病院から駅、駅から自宅が遠く、バスも少なかったため、タクシーをよく使っていました。1泊1000円程度の宿泊施設もあったのですが、キレイではなかったらしく利用しなかったそうです。体調が落ち着いた10月頃から2〜3か月、私は毎週末外泊をしていました。ただ感染症の関係で電車に乗れず、自宅に車がなくてタクシーを利用していたため月6万円程度かかっていたようです。

疲れていただろうし、「代わってあげられない、やるしかない」ことばかりで母もつらかったと思います。5年間の腹膜透析のあと、血液透析をするか腎臓移植をするか、選択をすることになったときに、腎臓をくれたのも母でした。

小児がん拠点病院は
全国に何か所あるでしょう?

全国 15か所 全国 15か所

国立がん研究センターがん情報サービス(小児がんの相談・病院)2023年4月現在

小児がんでの入院中に接してくれた医療者に影響され小児科の看護師を目指す。
母に反対されるも、予備校に通わずに大学進学。

入院先に特別支援学校があり、地元の中学から転校しました。小児の病院で15歳以下の子どもだけで、同じような境遇の人も、元気になっていく人もいたので、前向きでいられたのだと思います。

ただ、副作用による体力低下や倦怠感がひどく、院内学級の勉強にもついていけませんでした。退院後も、理解が得やすい入院中とは違い、「みんなと違う」ことをいろいろな所で感じていきます。高校も、試験のない通信制を選びました。通信制は、授業が週に1回で、年上ばかり。制服もなくて、憧れとはかけ離れた高校生活を送りましたね。

その後、独学で大学にも進学します。入院中にお世話になった医師や看護師の方々の仕事に「命を預かるだけでなく、誰かの人生を変える影響力のある仕事」と感銘を受け、小児科の看護師を目指しました。自分が病気を経験して知識があったので、勉強も楽しめました。

ただ母には、「予備校などの大学進学の費用は出せない」と言われました。「やりたいことは自分で責任をもつ」が母の考えです。「大変な道に進まなくても…」と思いつつ、意思が強い私の性格をくんでくれたんだと思います。

反対に父は、心配しながらも見守ってくれるタイプです。「なにかあったら言いなさい」といまだに言われます。堅実で、浪費家でもありません。父が生活を支えてくれて「変わらずいてくれた」という安心感が大きかったと思います。「家族のために」とアフラックの保険にも入っていたんだろうなと。

坪内朱音さん

看護師として活躍したのち、アフラック・ハートフル・サービスへ転職。
若年性がん患者団体でも経験や知識を活かす。

腎臓移植によって免疫抑制剤の内服が必要なため、就職先選びにも制限がありました。感染症にかかりやすい病院や病棟には就職できなかったのです。目指していた小児科で働くのを断念しました。難聴のため、急性期と呼ばれる騒がしい病院で働くのも自信がなく、結局、興味のあった精神面のケアができる精神科の病院に就職して「看護師になる夢」をかなえました。

その後、体力面と、コロナ禍の感染症リスクから、病棟の看護師を続けられなくなります。今後を考える中で「経験や知識を活かせ、誰かのためになる人生を送りたい」と思い、2021年1月にアフラックグループの特例子会社のアフラック・ハートフル・サービス株式会社(以下、AHS)に入社しました。AHSでは、人事総務の仕事をしながら、がんの啓発などの仕事をしています。経験や知識が活かせ、社会貢献にもなる仕事で、やりがいがあります。

アフラックの子ども向けがん保険「ミライトキッズ」の商品開発に協力した際には、思ったよりも費用がかかる点をしっかり伝えました。あとは、他の家族やきょうだいの悩みを聞いてくれる窓口があるといい点も話しました。

もちろん患者本人も、相談場所がありません。みんながどんな治療や生活をしているのかという情報や、就職の相談もできる場所がほしかったですね。相談するときは、みんな「ふわっ」とした悩みが多いです。それを聞いて具体的にしてもらえる場所が必要だと思います。

39歳までにがん罹患した経験者同士が集まり、啓発や交流をしている「STAND UP!!」にも参加しています。同じ経験をした仲間に出会い、「病気でできないこともあるけど、やる前から諦めたら後悔する」と思えるようにもなりましたね。15歳から39歳で、思春期や若年成人にあたる「AYA世代」や小児のがんは症例が少ないので、体験者同士のつながりや助け合える環境をつくっていきたいです。

坪内朱音さん

小児がんになっても諦めず、選択肢を広く持てるように。
患者と家族の悩みに、これからも寄り添っていく。

医療費以外でも、家族にはさまざまな負担があります。治療後や退院後、20歳以降も、晩期合併症などの治療でお金がかかるかもしれません。がんを家族で乗り越えたのに、経済的に苦しくなって、患者やきょうだいが将来を諦めたり、選択肢が狭まったりしてほしくありません。この体験談ががん保険のことを考えるきっかけになってくれるとうれしいです。

また、病気になってもネガティブにならず、自分のことを理解して、周りと協力しながら道をつくっていってほしい。そんな支援ができる社会になればいいなと思っています。

親は、子どもが苦労をしないようにと、生きやすい道をつくってくれることがあります。しかし、社会人になれば自ら病気や合併症のことを説明しなければなりません。子ども自身が早いうちから対処法を知る機会が必要だと思います。

今も将来も、不安はつきものです。私も病気になって、嫌なことや諦めることが多くありました。これからも、あると思っています。それでも、病気ですべてができないわけではありません。すでに病気で、悲観的になっている方に寄り添えるように、がんになっても前を向いて生きていける世の中にできるように、こうした啓発活動や、患者さんとご家族の力になる仕事をがんばっていきたいです。

坪内朱音さん

2025年10月現在の情報を元に作成

※がんを経験された個人の方のお話をもとに構成しており、治療等の条件はすべての方に当てはまるわけではありません。