高1のとき、風邪のような咳が1カ月続きました。

最初は風邪のような症状でした。咳が1カ月続き、大好きなテニスをしても息切れするようになり、食欲も落ちてきました。中高一貫の進学校に通う高1のときのことでした。

毎年選ばれていたマラソン大会の選抜チームに初めて落選し、言い訳のように下校時に地元の大きな病院に行きました。咳が続いて2カ月くらいになっていました。病院ではすぐにCT、レントゲンを撮り、安静にするように言われ、親が呼び出されました。

     

胸の画像には自分でもはっきりわかるほどの影が映っていました。母が「がんセンターを紹介してください」と言うのが聞こえ、自分ががんなのだと思いました。すごく怖かったです。命を落とすことになるんじゃないか、とその夜はなかなか寝られずベッドの中で泣いていました。

翌日、がんセンターへ。生検[*1]され、小児がんであると告げられました。病名は悪性リンパ腫、ステージⅢ。腫瘍は空気の通り道の前にあり、空気の通り道が潰れると呼吸ができなくなってしまうため、緊急入院となりました。

[*1]患部の一部をメスや針等で取り、顕微鏡等で調べる検査。病気を正確に診断することが目的。

ご自身の経験を語る松井基浩さん

なんで自分だけがこんな目に。

急に日常生活が奪われてしまいました。友達は学校に行って勉強したり遊んだりしている中で、なんで自分だけがこんな目に、と最初は病院の個室でふさぎこんでいました。

まずは1週間、ステロイドを投与して腫瘍を壊すんです。そのあとに使う抗がん剤は白血病に使う薬と同じなのですが、脱毛、気持ち悪さ、だるさ、といった副作用がありました。イライラして母に当たったことも多かったです。

独りの世界に入り込んでしまうとよくないからと、途中から4人部屋に移動することになりました。小児病棟には赤ちゃんから20歳の人まで、さまざまな年齢の患者さんがいるんです。

前向きな子どもたちに気づかされたこと。

4人部屋に移ってからも基本的に閉じこもっていたのですが、同室の小さな子が朝からカーテンをシャーッ!と元気よく開けて「遊ぼうよ」と言ってきました。ぼくは今でこそ小児科医をしていますが、元々は子ども好きでもなかったので最初は少し戸惑いました。でも、病気を受け入れて前を向いて明るくしている子たちを見て、感じたことがありました。

友だちになった子の中に小5の男の子がいました。治療の副作用で脱毛して髪の毛もないけれど、底抜けに明るいんです。明るい表情の裏で、実は足を切断するという厳しい決断を自ら選択していました。そうか、彼らも病気を受け入れて、自分で考えて、そのうえで明るくしているんだ、と気づいた瞬間がありました。ぼくもこれではいけない、見習わなくては、と思いました。

年齢差に関係なく、そのとき一緒に病院でがんと向きあった仲間は「友だち」だと思っていて、今でも繋がっています。

ぼくにとっては院内学級の存在も大きかったです。明るい先生たちが、病室のカーテンを勢いよく開けてやって来るんです。主要科目だけでなく、卓球やボーリング等の体育や音楽、家庭科といった授業もありました。進学校に通っていたので、学校の授業には家庭科等なかったので新鮮でしたね。日常に近い生活を続けながら、治療を受けるための環境が整えられていました。

朝ごはんを食べて、院内学級へ行って、お昼ごはんを食べに戻って、また院内学級へ行って、夕方になったら、夕ごはんをみんなで食べて、寝る、という感じで、8カ月の入院。最初の1カ月弱ほど落ち込んだ時期はありましたが、入院生活は楽しい思い出でいっぱいです。みんなで楽しく闘病していました。

入院中、子どもたちの姿に励まされ、医師になろうと決めていました。小児がんの子どもたちがこんなにいっぱいいるとは知らなかったし、自分自身も助けてもらったから、絶対に彼らの助けになる仕事がしたいと思い、医者になると周りに公言していました。

復学後、勉強にも人間関係にもついていけなかった。

高2の夏に復学してからの方がきつかったです。高3まで治療は続き、外来で2週間に一度通院。薬を飲むと副作用で、勉強に集中できない時期もありました。髪の毛の脱毛は帽子で隠していました。今は男性用のウィッグもありますが、当時はなかったんです。

1500人のマンモス校。勉強も、友人関係も、同級生にはすべてが及びませんでした。病院で一緒に闘病していた仲間が周囲にいなくなった環境の中、すでにできあがってしまった学校の友だちグループに入っていくのにエネルギーが必要でした。

通学に1時間半かかったので、学校の近くに家を借り、母は二重生活をしてサポートしてくれました。入院中も勉強はしていました。家庭教師の先生にも病院に来てもらっていました。とはいえ、勉強は追いつかず、大学受験のために塾に通おうとしたところ、その入塾テストに4回落ちました。

前向きになれたきっかけを語る松井基浩さん

医師になる夢のおかげで前向きに。

母に八つ当たりすることもありました。でも高2の冬、辛いかもしれないけれど、夢を追うこと自体が幸せ、だからがんばろう、と決意しました。

きっかけは、退院後、まだ入院中の友だちの外泊に合わせて、その子の家に泊まりに行ったときに交わした会話です。彼らも夢があって、やりたいことがある中でまだ治療をしなくちゃいけなくて、そんな中でもすごく前向きに夢を捉えて話してくれました。

学校の勉強についていけなくて、どん底にいるような状況だったけれど「絶対医者になれ。お前にしかできないことがある」って言ってもらいました。

受験勉強をしている今は、学校の友だちなんて関係ない、と割り切ることができました。また、気持ちが悪いときには勉強しない。その代わり、起きているときの時間はすべてを注ぐ。これ以上できないくらい自分を追い込んで勉強をしました。

センター試験の国語を少し失敗してしまったのですが、受験校選びに関して父がいろいろ調べてくれて、浜松医科大学医学部を受けて現役で合格することができました。合格がわかったときには家族みんなで泣きくずれたのを覚えています。

大学入学後は妻との出会いもありました。2013年に結婚。5歳の娘と1歳の息子に恵まれました。大学生になってからはテニスも再開しました。ずっと運動できていなかったので楽しかったですね。

「がん患者には夢がある」
サイトを運営して、若い人のがんの相談に。

SNSで若い人のがんの相談に乗っているうちに「がん患者には夢がある」というサイトを運営することになりました。人は、どんな状況でも夢がある。夢のパワーはすごいもの。前を向いて進んでほしい、という願いを込めました。

その後、2009年にはフリーペーパー「STAND UP!!」を発行しました。SNSも今ほど盛んでなく、孤独な闘病、どこにも情報がない、という状況を変えたかったのです。若い患者同士でつながることで、ぼくたちは先のために今辛い治療を受けている、先を見ているのだ、ということを伝えたかったのです。

小児科医として
子どもたちを支えたい、という想いを
叶えさせてもらっている。

今は、自分が治療を受けた当時の主治医のもとで働いています。命の恩人が、医学の師匠にもなりました。とても信頼しています。医者になりたいという夢を伝えたら、医者になるにはどうしたらいいかというのを入院中から教えてくれました。

今、小児科の医師になって思うのは、がんを治すのは子どもたち、がんばっているのは彼ら、ということです。医師たちは子どもたちを支え、治療を提供しているに過ぎない。

ぼくは、この仕事を実は仕事と思っていません。やりたいと思ってやっています。子どもたちを支えたい、という想いを叶えさせてもらっています。

がんばっている子をかわいそうと言うのではなく、
応援してほしい。

がんを経験した医師としてみなさんに伝えたいのは、がんになった子を「かわいそう」と言うのではなく、応援してほしい、ということです。がんばっている人に「かわいそう」は少しおかしい気がしています。

ぼくの入院生活が、院内学級のおかげで日常生活を維持できて充実したように、病気になる前の日常生活になるべく近い環境が保てるといいと思います。髪がないことも、義足であることも、それ以上でもそれ以下でもない。みんなが自然に受け止められる環境になるといいなと思います。

お金の面で問題だと思うのは、子どものころは公的な保障が充実しているのに、AYA世代[*2]になると急にその保障がなくなってしまうこと。収入もまだまだ少ない時期ですし、お金で命が左右されることになりかねません。

今振り返ってみると、家族、医師、看護師さん、院内学級の先生、友だち、誰が抜けてもうまくいかなかったと思うし、自分一人では何もできなかったと思うので、どんなに感謝してもしきれないくらいで、未だに感謝しています。多くの支えがあったから乗り越えることができました。

[*2]AYAとは、Adolescent and Young Adultの略で15歳~39歳までの思春期(Adolescent)・若年成人(Young Adult)のこと。その世代の年代の人のことをAYA世代と呼び、その年代のがん患者や経験者のことをAYA世代のがん患者(経験者)という。

医者としてもっともっと上を目指し、子どもたちの本当の支えがしたいので、まだまだがんばらなきゃな、と思っています。患者さんと医療側、両方の立場を経験した者として、お互いが納得できるやり方をこれからも探していきたいと思っています。

2019年2月現在の情報を元に作成

※がんを経験された個人の方のお話をもとに構成しており、治療等の条件はすべての方に当てはまるわけではありません。