憧れだった看護師の資格を取得した直後、がんが見つかりました。

念願だった看護師の国家試験の合格発表があった直後、左の大腿骨にがんが見つかりました。その半年前から足の痛みはあったのですが、レントゲンには病変がうつらず、痛み止めを飲んでやり過ごしていました。途上国で働く国際看護に興味があったので短大卒業後、4年制大学の看護学部に編入し、さらに勉強する予定でした。ですが、やはり痛みが続いたのでMRIで検査したところ、腫瘍の可能性があるということで、がん専門の病院を受診。骨肉腫と肺への転移を告げられました。転移と聞いたときには「手術でどうにかなるものじゃないかもしれない。生きられるかどうか、看護師もできないかも」と思いました。

手を乗せる関口さん

手術後、どのように「歩ける」のか、怖くて先生に聞けませんでした。

最初に4種類の抗がん剤治療を受けてから、手術を受けました。手術後には、術前の抗がん剤の効果を活かし、私の病変に効いた抗がん剤の投与を受けることになっていました。先生は「手術をしても歩けるよ」と言うのですが、どういう足になるのか、私の求める「歩ける」なのかわかりませんでした。普通に生活するための「歩ける」なのか、看護師として働けるくらいの「歩ける」なのか、大好きな富士山に登れるくらいの「歩ける」なのか。先生には聞けなかったのですが、手術の何日か前に、私と同じ病気で手術をして杖をついている男の子と話をして、先生の言う術後の「歩ける」はこういう感じなのかと、やっとイメージができました。

手術は、大腿骨の一部と膝関節を人工関節に置き換え、同時に肺を部分的に切除しました。人工物ってすごく高いんです。21歳でがん保険にも入っていなかったですし若いから必要ないと思っていましたが、がんになった後では保険に入りづらいと知って、入っていればよかったなと思います。

1日でもいいから看護師として働きたかった。

退院後、どれくらい生きられるかわからない中、編入した大学でさらに2年間勉強するのは果てしなく遠く思えました。だったら勉強するよりも、1日でもいいから看護師をやりたい。大学はもう辞めようと思っていました。それを手術してくれた主治医の先生に話したら「もっと勉強して社会に出ろ」と言われたんです。そのとき初めて「あ、私って生きられるのかな」と思いました。2年勉強してこい、ってことは2年は生きられるのか、と。復学し、まだ治療は残っていたのでたまに休んで抗がん剤治療を受けながら卒業し、最初は心臓の病院で念願の看護師として働きました。

それ以来、看護師を辞めたいと思ったことは一度もありません。私はみんなと違って、看護師ができないかもしれない、というところからスタートし、できるかも、やってみよう、できた、という過程があって、できた喜びが大きいので、自分の身体を大切にしながら続けていくつもりです。「できる、できない」じゃなくて、「どうしたら、できるか」だと思うんです。例えば、私、走ることができないんですね。急げない。ですけど、急がなくていいように事前に準備しておこう、とか、流れを読んで先回りして準備することはできますし、やり方変えればできるんですよね。

今は、手術を受けたがん専門の病院で自分の主治医である先生について手術室勤務の看護師として働いています。たまに手術を不安がっている人がいると、「麻酔ってこうでした」「痛みはこうでした」と私は患者としての経験を話しています。知識ではなく、経験の方を知りたい人の方が多いんですよ、本当は。

経験を語ってくれる関口さん

同じ病室のみんなと話せて前向きな気持ちになれた。

21歳で入院した当初、カーテンを締め切って誰とも話しませんでした。でも6人部屋が同世代で埋まったとき、ふとしたきっかけで話し始めたら、みんな環境は違っていても、生きることに向かって治療している状況は一緒だったので、分かり合えるものがあり、そこから打ち解けて朝からカーテンを全開にして「おはよう!」って一日を始めることができるようになって楽しかったです。消灯時間すぎてもこっそりお喋りしていました。

同じ骨肉腫で入院していた中学生のかなちゃんとの出逢いもありました。中学でバスケをやっていた、すごく活発な明るい子。一度は足を温存する形で手術をしたけれど再発して、足を切断していました。それでもバスケが好きだから車いすバスケやる、とリハビリも治療もすごくがんばっていました。かなちゃんは「陽子ちゃんみたいに看護師になって働きたい」と言ってくれました。私も昔の自分と重なって、かなちゃんが看護師さんになるころにはこの病院で一緒に働こうねと約束していましたが、残念ながら2011年に旅立ってしまいました。今でも新人の看護師さんが頑張っているのを見ると、生きていたらこんな感じなんだろうなとかなちゃんを思い出します。

私に嘘をつかなかった母。

検査をしたとき、母は「どんな悪い結果でも言うからね。隠したりしないで言うから、受け止めなさい」と言っていました。とてもありがたかったです。隠されたり、こそこそ裏で話されたりするの嫌ですし。嘘つかないんだと思うと、母を信じることができました。病院の食事があまり食べられなかったとき、母の作ったおじやを、父が土鍋のままバイクで持ってきてくれました。今まで当たり前のように食べていた家のご飯は泣けるくらいおいしかったです。入院中たまに外出許可をもらって家に帰ると、髪の毛が抜けていつも痩せて帰ってくる私に、姉妹弟たちは「あれ?帰ってきたの?」なんて憎まれ口を聞きながら迎えてくれました。優しくされるより、いつも通りに接してくれたことが何より嬉しかったのを覚えています。治療を乗り越えられたのは、家族や友人、入院中に出会った人たちのおかげ。感謝の気持ちでいっぱいです。

関口さんが撮影した富士山

目指すは富士山フォトグラファー。富士山に人生を支えてもらっています。

足の手術は2003年8月13日でした。その3年前、18歳のときに富士五湖を歩いて廻りそのまま富士山0合目から登頂したのが、同じ8月13日でした。4日間歩き続けましたが、辛かった記憶は全くなく、以来富士山が大好きになりました。手術の日を聞いたときには、「富士山に登ったあの日だ。これはきっと大丈夫、富士山が守ってくれる」と思いました。足に障がいを持つかもしれないけれど、また行きたいと思わせてくれるものがありました。治療を頑張れたのも富士山に行きたい気持ちが強かったおかげでもあります。

手術して数年後に、周りの反対を押し切って最後に富士山に登りました。それまで、障がいになる足でした。何か新しいことを始めようとすると、この足が私を止める。足が障がいを持っているせいでうまくいかないって思っていたんです。でも富士山の頂上に立って最高の景色を見たときに、その気持ちは一変しました。この足があるから、看護師として働けるし、富士山にも登れたと思って。そのとき初めてこの足に感謝しました。いつも私を支えてくれて、ついてきてくれてありがとう、と。人からみたら大げさかもしれないけれど、富士山は私にこの足との向き合い方を教えてくれたんです。時間はかかりましたが、最近、やっと、がんが私を成長させてくれたと思えるようになりました。

今は富士山に登ることはできなくなりましたが、富士山の写真を撮ることで想いを満たしています。 病気になって失ったものも多いけど、病気になったからこそ看護師として働ける喜びをすごく感じますし、写真の世界に出会って、富士山フォトグラファーという新しい目標も見つけました。最近は仲間と写真展を開いたりフォトコンテストで入賞したりしています。病気になっても障がいがあっても、好きなことは生きる目標になると実感しています。この足はきっとこれからも、私にたくさんのことを教えてくれるのだと思います。

2017年12月現在の情報を元に作成

※がんを経験された個人の方のお話をもとに構成しており、治療等の条件はすべての方に当てはまるわけではありません。